熊凝精舎と額安寺


 大和川は盆地の低湿地部を流れていますが、額田部は例外的にこの大和川に突き出すようにせりだした丘陵あるいは微高地です。第5章で述べる阿土もこの微高地の西の飛び地です。この南の先端部に額安寺が位置しています。
 額安寺の前身が熊凝精舎で、聖徳太子がインドの祇園精舎をまねて作られた仏教修行の道場・学問所です。
 この寺に伝わる「額田寺・条里図」は天平時代に麻布に描かれた古地図で国宝となっているが、現在国立歴史民族博物館にある。 (寺の方に伺うと、預かるといって持ち出されたままで返してもらえないと嘆いておられた。)これによると、東西3町、南北2町の寺域を持つ七堂伽藍の大寺であったことがわかる。

  「額田寺・条里図」(国宝)の復元図の一部(歴史民俗博物館提供)


 額安寺の寺名の由来は推古天皇の額の瘍がこの道場に祈願されたところ、跡形もなく平癒したので、額安寺の名を賜ったことだそうです。近くに推古神社があり、推古天皇の名前である額田部皇女との関係を寺の方に伺ったところ、 全く分からないとのことであった。実際、「条里図」を見ると、その神社のある所は奈良時代には寺域であり、後からまつられたことが分かる。
 本堂の前に日本で2番目に古い宝きょう印塔が立っている。 これは、以前の寺の前の古池の中之島に立っていたもので、住職さんに伺うと、塔が傾いたので、調査の際持ち出して、現在地に移したとのこと。元もと、池に沈んでいたものを中之島に置いていたそうである。
 現在の額田部は工業団地に囲まれ、寺のある一角だけが昔の面影を残している。上述のように邸湿地(額田の名もそれを示す)が続く大和盆地にあって大和川(水上交通路)沿いの高地で特異な場所である。 後に述べるように額田部氏は馬と外交に関係があり、馬の放牧地であったように思われるのだが。

額安寺本堂、左にあるのが日本で2番目に古い宝きょう印塔(南より撮影)

寺の前の様子。工業団地に囲まれた一角であるが、昔の面影を残している。木々の後ろに古池があり、宝きょう印塔は元々ここに有った。(西より撮影)