膳部夫人について

 定説では、膳部夫人は斑鳩地方の豪族・膳部傾子(かしわでのかたぶこ)の娘と云われている。しかし、現橿原市にある膳夫(かしわで)町の人々は我が村の出身であると信じている。
 この膳夫は香久山の北東にあり、飛鳥や太子の上宮にも近い。膳部氏は朝廷の料理、食料調達を行う伴臣(とものみやっこ)であるが、この仕事の都合上、 飛鳥に近い香久山の付近に住み、領地もここにもらっていたと云われている。
 町民は、膳部氏の本貫地はここで、姫が太子妃として斑鳩に嫁いだとき、一族も斑鳩へ移住し、 法輪寺付近に住んだ。本家は香久山の方だと主張している。
 太子が斑鳩と飛鳥を往復されたとき、よくこの村を通られた。 太子27才のとき、病気の母のために畔で芹をつんでいた村娘を見初められ、斑鳩宮に召して妃にされたという。

膳手町の貰田家(寺ではなく一般の家)にある膳部夫人の像、先祖代々よりお祀りされている。(岡本精一著「太子道を往く」より)

 現在、膳夫町に貰田(もらいだ)というお宅がある。 「膳夫寺略縁起」の説話によると、貰田家の家はもともと芹姫の家が建っていた地にある。姫の養母古勢女(こせじょ)が住み、母の死後、菩提を弔うため太子が草案を建て、 その管理人に管理料として田を与えられた。その家を貰田家といい、現在も続いている。
 この家には極彩色の膳部夫人の像や絵像が2つの厨子に入れられてまつられ、 家人が給仕している。何度も修復されたものか今も色鮮やかで、さほど古い時代に修復されたものとは思えない。別伝によると、姫が太子の元に嫁ぐとき、 身分の低い百姓の娘だったので、当時の豪族巨勢(こせ)氏の養女となってから嫁いだとか、いろいろな伝説が残っている。
 身分にとらわれず村娘を妃に迎えられた太子のおおらかな心に、庶民は敬服と親しみをもって太子を仰ぎ見ていたことであろう。
 (岡本精一氏の「太子道を往く」より)