「聖徳太子」という呼び名について

 この名は後世に太子の遺徳を讃えて付けられた尊称で、元の名は「上宮厩戸豊聡耳皇子」(うえのみやのうまやどのとよとみみのみこ)です。
この「上宮」(日本書紀の古訓では「かみや」あるいは「かみつみや」と読むのが正しい)は父、用明天皇の住まわれていた池辺双槻宮(いけべふたつきのみや)の南の上(かみ)にあった宮に太子が住まわれていたことに由来します。 「厩戸」とは太子誕生の伝説からです。母、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が橘宮(太子のお祖父さんである欽明天皇の別宮、現在飛鳥の橘寺のある場所)の厩へ来られたとき、 急に産気づかれ太子をお生みになられたとの伝説で、キリストの誕生伝説と重なるのは偶然だろうか。西域のマニ教の影響だと推測する人もいる。
次の「豊聡耳」も、太子は幼少のときから聡明で、大きくなられてからも、 同時に8人の話しを聞き分けられたとの伝説からです。
日本書記によると推古天皇(太子の伯母)が即位すると(588年)すぐに皇太子(ひつぎのみこ)として立て、太子に国政をゆだねられるとある。
 推古2年(589年)には高句麗の僧惠が来日し、太子は惠慈から仏法を学ばれる。
以下3度の遣隋使の派遣、冠位十二階の制定、憲法十七条の制定等々の業績は教科書の通りである。

 聖徳太子はいなかった?
 最近「聖徳太子はいなかった」という本が話題になっているようである。
 気になったので、どんな本か書店で立ち読みしたところ、聖徳太子というのは後世に付けられた尊称であること、皇太子制度も後世に出現したこと等を理由に、聖徳太子という言葉使った史書や伝記類はすべて偽であり、あげくの果てには、厩戸皇子という存在そのものを後世の理想人物として捏造されたように主張している様である。
史書は後世に書かれたものだから、 書かれた時代における呼称を用いるのは当たり前であり、また伝記には伝承に基づくために誤りや誇張や修飾が多く含まれているのも常である。
それを根拠に文献はすべて捏造であり、 聖徳太子(厩戸皇子)の存在そのものを全否定するといったきわめて乱暴な本のように見受けられました。(・・立ち読みなので、間違っているかも・・・・しかし買う気にもなりませんでしたが..)
 あとがきに著者自身が触れられているように、出版社に勧められ、酒飲みが酒の勢いにまかせて書いた本であろう。まさにこれこそ「とんでも本」である。
 しかし、これを、大衆への強い影響力をもつマスメディアがまともに取り上げ、その片棒を平気で担いでいる ことに大きな違和感を持つのは私だけではないだろうと思います。
 何か意図的なものが感じられます。
 私がこういうことをあえてとりあげるのは、先日、法隆寺を拝観した折、百済観音堂に掛けられていた聖徳太子の略伝を書いた大きな年表の前で、 若いカップルが「えっ、聖徳太子っていなかったんじゃーなかったっけ。」と話しているのを聞いて驚愕したからです。

救世観音像

救世観音像。実物はもっと金銅色に輝いています。仏像というより聖徳太子その人を見るようです。 (法隆寺パンフレットより)

 夢殿には本尊である秘仏「救世観音像」が安置されていて、古来より太子等身の像と云われ、明治時代までは90mにもおよぶ長い白布で全身が巻かれて、 秘仏として誰もその姿を拝むことが出来なかったそうです。
 これを明治の中ごろ、岡倉天心とフェノロサの要望で布が解かれたそうです。そのため木彫ですが、表面の金箔が今も残り、金銅製のように見えます。 現在も秘仏で春秋の特別公開の期間中だけ見ることが出来ます。太子の等身像と云われていますが、像の丈が180cmもあることから、太子も長身であったと想像できます。
 付け加えると、法隆寺西院の金堂にある「釈迦三尊像」もその光背に書かれた銘文から、推古天皇31年(623年)に、 亡くなられた太子のために等身の釈迦像を止利仏師に造らしめたとあります。これは座像ですが、座高から推測するとおなじく身長約180cmになるそうです。
  蛇足ですが、いずれの光背も怪しげな炎が描かれています。これらは梅原猛氏の云う怨念の炎ではなく、私は(製鉄の民である)西アジアの拝火教の影響だと思っています。 西域では仏教、拝火教、キリスト教などの混合宗教が強い力をもっていた時期があり、西域の仏教もその影響を受けていました。
 この時代から天平時代にかけては中国より、西域の影響が強かったことはいくつもの証拠から言えます。正倉院の御物しかり、 東大寺のお水取りの大たいまつは仏教とは縁のない拝火教に由来する行事でしょう。
 後に紹介しますように、法隆寺でも節分に西円堂でたいまつを投げる行事が行われています。 (後世に始められた行事ですが。)