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GPS考古学序論




筋違道の謎を解く


第0章 序論

第1章 筋違道入門

 若草伽藍の礎石の話   

第2章 筋違道のなぞ

   

第3章 GPSデータの解析

   

第4章 安堵町以北の解明

   

第5章 安堵道と三宅道の接続の解明

   

第6章 多以南の道の解明




New!   

第7章 上宮への道(磐余道)

   

第8章 斑鳩宮への道


太子道(筋違道・すじかいみち・日本最古の官道)の謎を解く−−−筋違道の研究



 第5章 安堵道と三宅道の接続のなぞを解く。

         --------- どこで大和川を渡ったか。

 いよいよ、難問の一つに取り組むことしよう。探究は三宅道の北への延長からと、安堵道の南への延長からの両方から行います。
 まず、安堵道の延長から考察を始めることにします。

1. 安堵道は直線的に中窪田の旧杵築神社近くまで延びていた。


 安堵道が前章の考察から、その斜向道の傾き角の精度はかなり信頼できることが分かってきました。そこで、道を直線的に延長するとどの辺りに来るかを調べることにしました。
 第2章で述べたように、旧大和川は安堵町窪田のあたりで大きく蛇行を繰り返しながら流れていました。国は洪水対策として、 蛇行部分を直線路に変えるため、昭和35年〜40年頃にかけて大規模な流路切り替え工事を行い、上窪田から中窪田そして下窪田までの大和川の流れが大きく変わってしまったのです。 そのため、第2章で述べた様に謎を解く鍵となる2つの杵築神社が消滅してしまいました。
 どうも安堵道の延長はその内の一つ中窪田の杵築神社まで延びていたように見えます。その痕跡が現在残っていないかGPSで調べた訳です。中窪田の南半分は新しい大和川の河原となってしまい、 GPSも途中までしか調べることが出来ません。
 中窪田集落の東端、現大和の堤防下に常徳寺があります。そこから西へ村落を貫く道がありますが、その道の途中、常徳寺から2〜30m程のところを安堵道の延長線が通っていると計算されますが、 家が建込み痕跡らしいものは見当たりませんでした。

中窪田の常徳寺。寺の右の堤が旧堤防の跡。 手前の堤防は現大和川の堤防。後方の白い建物(倉庫)は旧大和川跡に建っている。ここでは旧大和川は南北方向に流れていた。(南の現大和川堤防より撮影)

左の写真の常徳寺前の道を東(右側堤防)から写したもの。 自転車が通っている少し手前を安堵道延長線が横切っているはずである。

 

 しかし、それは道の北側ばかりを調べていた為で、私はその道の南側に小さな空き地があるのを見過ごしていたのです。堤防から見るとこの空き地の東側の境界線がわずかに斜向しているではありませんか。
 これに意を強くした私は集落の北側の田圃中をGPSと計算用のパソコン(単3乾電池2本で5〜6時間動く旧式のカシオペア)を持って調べました。

新大和川堤防から見た空き地。 空き地の右側(東側)の塀が少し斜めになっている。GPSではここに安堵道の延長線が通っている。正面の蔵横を奥に向かう路地が公道である。(南から撮影)

使ったカシオペア(反射型モノクロ液晶、重量500g)ではWindowsCE上でPocket Excelを動かして計算。右がGPS。



写真ではよく分かりませんが、田んぼ中に南北の農道が走っていて、その終点に車が止まっています。 車の先から東西に溝に沿って小道があり、それが路地へと続いています。(北西から撮影)

 斜向道は存在しませんが、 安堵道の延長線に添ってジグザクにまとわるように走る田圃中の農道を見つけました。 そしてこの道は南の集落の間の非常に狭い路地として集落に吸い込まれるように続き、先ほどの空き地の前へ出ることが分かりました。

1948年の航空写真。現堤防そばの空き地がはっきり斜めに写っています。 道は旧杵築神社へ向かっているのが分かります。




 この路地は果たして公道なのか私道なのか、探究することにしました。 法務局の公図を閲覧しましたところ、なんとこの細い路地は公道であること、および集落の北のジグザクの農道も公道となっていることが判明したのです。 その後、窪田 中寧氏所蔵の貴重な明治の窪田全域の実測図を閲覧させていただきました。(左がその拡大図です。地図で「字垣内」の「字」の右横の赤い道が例の路地です。)
 殆どの里道は条里区画の境に限られるのに反して、この個所だけは例外的に赤色の道で描かれる里道扱いになっていました。
 明らかに太子道の痕跡です!
 前述の空き地の南には河川改修前には1〜2軒の民家があり、その南に旧中窪田の杵築神社の敷地があったはずです。
(右図の赤丸が描かれた敷地が旧杵築神社境内。)

 ところで、この杵築神社の境内には、第2章で紹介した推古式の石塔があったはずですが、神社のどの辺りにあったのでしょうか。
 それを尋ねに中窪田の古老のお宅を訪問いたしました。95才になるこのご老人は奥様とご一緒に縁側のソファーでくつろいでおられました。長く中窪田の総代を務められていたこのご老人は耳が遠くて中々質問の意味が理解されなかったのですが、話をする中で突然思い出され、「そうそう、その石塔は神社の北にあった。7重の石塔やったが、神社を移転するに当たって、もし13重の石塔やったら国宝級やということで一所懸命、矢で地面を突いて探したが見つからんかった。」と貴重なお話を伺うことができたのです。
 どうも私の想像では、元々石塔は安堵道の終点に建てられていて、後にその南に吐田から分神した杵築神社が建てられたように思われるのですが。
 ついでに空き地のこともうかがったが、「昔からあそこは空き地やった」とのことです。

2.川向うの南吐田旧杵築神社について



 第2章の「なぞの参道」に触れたように、この神社については、明治の陸軍省の地形図から、また国土交通省大和川管理事務所の古い工事資料の図面、橿原考古学研究所の条里復元図から、 かなり古くからある広い参道だと想像できます。
 さらに詳細に知りたいため、国土地理院のサービスで、すでに紹介した1948年2月撮影の米軍の航空写真を手に入れることができました。 アナログのため、拡大しても詳細は不明瞭ですが、明らかに斜めの広い参道が写っています。この参道をさらに南西に延長すると、現在の常徳寺の対岸辺りにぶつかります。

 神社は川岸から少し離れた場所にありますから、参道から川岸に達するために、この道はさらに南西に延びていたと考えられます。

3.太子は両杵築神社の間で川を渡られた。


 ここで川を渡れば、例の中窪田の旧杵築神社近くへ出ることになります。ここへ安堵町からの道が来ていたわけですから、その道で斑鳩まで行けるわけです。つまり、太子は斜めの参道を延長した道から、現在常徳寺の辺りで川を渡られ、中窪田の石塔辺り( 太子の時代には中窪田の杵築神社は無く、安堵道の終点に例の石塔が立っていたものと思います。)で休憩を取られてから、安堵道で斑鳩へ向かわれたと想像されます。
 この辺りには改修以前、上の航空写真の下端に写っている様な、馬場尻橋という名の小さな橋、いわゆる「流れ橋」が掛かっていました。
 これは、一旦河原まで降りてから渡る小さな橋で、丸太を組んだ上に2枚の板を敷いただけの、人がやっと一人通れる狭い橋です。流れの直ぐ近くに懸けられている為、増水するとすぐ水に浸かりますし、 大水の際には、橋は流されますが、橋桁にロープが付けてあるので、水が引けばロープで手繰り上げ、元通り橋を懸けるというものです。
 中窪田の別の老夫人に伺うと、 「嫁いで来た当初、主人は上を向いて歩いたらええんやといいますが、橋を渡るのが怖うて怖うて。しかし1年もたたんうちに、荷物を両手に持ってすたすた渡れるようになりました。」と話されました。

現在の馬場尻橋。対岸に中窪田の常徳寺の屋根が見える。(南から撮影)

 また、大水害のときには、完全に橋が流されてしまい、川を渡るには、上流にある「板屋ケ瀬橋」まで歩いて行かなければならなかったそうです。
 改修後は現在あるコンクリート製の馬場尻橋に変わった訳です。
 太子の時代にはどんな橋であったは、全く分かりません。このような「流れ橋」か、あるいは渡し舟で渡られたのかも知れません。

  次に三宅道の北への延長から、なぞを解明する。

4.三宅道は直進していた。


 それでは、この杵築神社へは三宅道とどのように繋がっていたのでしょう。南吐田の杵築神社へは、寺川に沿って進むのが一番の近道です。 しかし、前に述べたように、寺川は太子の時代には別のところを流れていたと考えられます。
 また三宅道は伝承から、どうも曲がらずに直進していた可能性が高いのです。
 このことを確かめるために、私はGPSとパソコンのカシオペアを持って、三宅道の延長線を実際に歩いてみることにしました。
 ほとんどが田圃中ですが、一個所だけ途中に池があった場所があります。 この池跡に邪魔されずに直進可能かを調べたかったのです。この池の跡は現在川西町の水道部の浄水場となっています。

終戦後の航空写真。三宅道の延長が池に邪魔されるように見える。実際はどうなのか、調べてみた。

池跡は現在川西町水道部の施設となっている。 GPSの測定結果は、図の線のように微かに池跡の縁をかすめるように延長線が通ることが分かった。



 延長線である所をGPSとパソコンで確認しながら歩いたところ、 丁度池跡の縁に沿って不思議なほどぴったりと道の延長線が通っていたということを確認することができました。 偶然にしては、出来すぎです。
 この結果から、三宅道は直進していた可能性が非常に高いと云えます。

5.三宅道はどこへ行くのか。


 すると、三宅道はどこに向かうのでしょうか。 直進すると道は現在の油掛け地蔵の少し西を斜めに進み旧大和川の堤防にぶつかります。 改修後の大和川左岸が元と異なっているので対岸の右岸で調べると上窪田の八王神社辺りに到達します。 その対岸は旧河川で云うと丁度川が南に張り出すように湾曲していた所だということが分かります。


6.三宅道はどこで川を渡っていたのか。(ホームズ君との対話)


 それでは、上のぶつかった場所で川を渡っていたのでしょうか。
その謎を解くため、ここで、ホームズ君に登場してもらい、対話形式で謎解きをしたいと思います。

ワトソン: やあ、ホームズ君、わざわざ呼び出して悪いね。
ホームズ: そうですよ。さっきの話しでは、「第5章を読めば分かるよ。」とおっしゃったんじゃないですか。その章に僕が登場するとおかしなことになってしまいますよ。先生はかなり”シュール”(シュール・リアリズムの略)だなぁ。
ワトソン: ハハハハ。そうかも知れない。しかし、謎解きには君がぴったりなんだよ。
ホームズ: それって、褒め言葉ですか。
ワトソン: もちろんだ。 前口上はこの位にして、本題に入ろう。
 上で説明したように、三宅道の延長はこの辺りで大和川にぶつかる。さて、それじゃー、どこで川を渡ったのだろうね。
ホームズ: えっ、さっきの話しでは、両杵築神社の間で渡っていたのではなかったんですか?
ワトソン: もしそうなら、こんな向きに三宅道を延長することは有り得ない。
ホームズ: そうですね。・・と云うことは、もう一個所別の所で川を渡っていた。・・さて、どこと云われても・・先生ヒントを下さい。

板屋ケ瀬橋

ワトソン: その橋は、すでに分かっているのだよ。板屋ケ瀬橋(いたやかせばし)だ。 今もある大和川を渡る重要な橋だ。 ただ昔の橋は、今よりもう少し下流にあった。
 ・・実は、わしは面白いことを発見した。それを君に再現してもらおう。
ホームズ: ええ、それなら何なりと。
ワトソン: この航空写真を利用しよう。この大和川の堤防とぶつかる少し手前の点で、大和川の堤防の曲線への接線を引いてみなさい。



ホームズ: 数学の授業みたいですね。・・こうでしょうか。
      あっ、すごい。杵築神社のあの斜めの参道を通る!



ワトソン:
 そうだね。もう一方は。
ホームズ: 東側で、大和川の堤防にぶつかります。
ワトソン: そう。丁度そこに昔の板屋ケ瀬橋が架かっていたんだ。この明治の地図を見なさい。わしも現地の古老に尋ねて確認した。昭和の始めまで残っていたんだよ。

明治の地図。昭和の始めまで橋はここに架かっていた。

古老の記憶の位置に、昔の橋脚のコンクリートの礎石の一部らしいものが残っている。 (北から撮影)



ホームズ: 偶然でしょうか。
ワトソン: そうじゃない。最初に板屋ケ瀬橋を架橋したのが、聖徳太子なんだ。だから、計画的にこの位置に架けたわけだ。
ホームズ: 計画とは、僕が今ひいた線ですか。
ワトソン: その通り。 この斜めの横道は殆どが消滅しているが、神社のところだけは参道として保存されてきたんだ。

         

ホームズ: 道理で。 写真で見て、やけに広い参道だと思ってたんです。  しかしこの参道も、水没して今はないと思うと残念です。
ワトソン: そうだね。この写真も貴重だ。色々なことを教えてくれる。
 伝承では油掛け地蔵のところで太子は休憩されたとあるので、元々この地蔵堂は写真のT字路の交差地点に祀られていたんだろう。洪水で流され泥に埋まっていたのを、後世に堀出されて条里の交差点である現在のところに、たぶん移されたんだろうと思うよ。
ホームズ: なるほどね。実は僕も、なぜ何もない田圃のど真ん中に地蔵堂があるのか不思議に思っていたんですが。これでなぞの一つが解けました。
一つ疑問があるのですが、この辺りで川は大きく蛇行していますが、現在の川の流路が洪水等で太子の時代の流路と大きく変わっている可能性はないのでしょうか。
ワトソン: わしもそれが気になっていたのだが、不思議なことに、余り変わっていないようなのだ。
 その理由の1つは、中窪田の古老にそのことを伺うと、この辺りは、土地が低いので、昔から排水が悪くて、大雨で水に浸かることは多かったが、意外に堤防が決壊したという話は聞いたことがない。大抵、大和川の決壊はもっと上の方で起って、こっちの方は大丈夫だったそうだ。
 また、河川の専門家に伺うと、最近の研究では、大和盆地の河川は、堆積作用よりも浸食作用の大きくて、今でも放っておくと川底が削られて行くそうだ。
 勿論、長い年月の間には、堤防の決壊もあったであろうが、地元の住民の力で、元の堤防の形に復旧されたのだろう。
 それ以上に、旧の板屋ケ瀬橋の位置が殆ど変っていないこと、元杵築神社の斜めの参道、それらから今我々が推測したみごとな太子道の復元が可能であることが一番の証拠になる。
ホームズ: なるほど、今我々の発見したこともその証拠になるのか。 もし川筋が大きく変わっていたなら、こんな見事な道の復元は不可能ですからね。
ワトソン: ところで板屋ケ瀬橋について、説明を付け加えると、太子はこの橋の維持管理を額田部の熊凝精舎(後の額安寺)に委託した。
 この橋の西、窪田の中家のそばの田圃に額安寺という小字があるが、たぶんこの管理費捻出のための寺領だったんだろう。
 また、橋の近くに地蔵堂を建て、額安寺が管理していた。
 元のものかどうか分からないが、何回も水で流されたと伝えられる地蔵が今、板東公民館の側に祀られている。

堤防の北、旧板屋ケ瀬橋たもとから数10m東にある公民館に地蔵が祀られている。 写真向かって左の格子戸の中。(南より撮影)

地蔵菩薩。元は堤防上にあったようです。 何度も流され、また掘り出され、元の場所に戻ることを繰り返したようで、痛々しい姿をしている。



ホームズ: へぇー、そうなんですか。ところで、さっきから疑問に思っているんですが、太子はこのような立派な橋を何のために架けたのですか。もちろん、斑鳩へ行くためじゃないですね。
ワトソン: そうだね。一般的な説では、この橋から北東約1kmにある額田部に、太子が祇園精舎を真似てつくられたとされる仏教の学問道場の熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)へ行かれるためだったとされている。 しかし、そのためにわざわざ立派な橋を造るとは信じられないね。
 それにだ、第2章の額田部のところで紹介した、奈良時代の条里図に額田部へ向かう直線路の痕跡が見られないのは主な目的地がそこでは無かったことを示している。

額田寺条里図の復元図(歴史民俗博物館蔵)の一部。 また橿原考古学研究所・条里復元図ではこの伽藍付近の小字名が熊凝山となっている。


   

阿土の館

ホームズ: そうですね。それじゃ何処へ行くためと先生はお考えですか。
ワトソン: わしは、阿土の館(むろつみ)へ行くためだったと考えている。
ホームズ: あどのむろつみ? 何ですか、それは。
ワトソン: 阿土にあった、外国からの賓客のために建てられた迎賓館のことだよ。館と書いてむろつみ(室積み)と読ませるのだから、当時の高層建築だったんだろう。とにかく迎賓館のことだ。
ホームズ: へぇー、どこにあったのですか、それは。
ワトソン: 直ぐそこだよ。今は安堵町周辺の先祖の墓が集まる広大な墓地になっている。
航空写真で見ると、ほら、橋から北へ数100mの距離だよ。

 この名が最初に登場するのは、日本書紀の敏達天皇12年の記事で、
   「館(むろつみ)を阿斗の桑市に営りて、日羅を住らしめて、ねがいのままに供給ふ。」とある。
 また太子の時代では、推古天皇18年に
   「冬10月8日に、新羅・任那の使人、京にまいたる。この日に、額田部連比羅夫(ぬかたべのむらじ
  ひらふ)に命せて、新羅客を迎ふる荘馬(かざりうま)の長とし、膳臣大伴(かしわでのおみおおとも)
  を以ちて、任那客を迎ふる荘馬の長とす。則ち阿斗の河辺の館(むろつみ)にはべらしむ。」
 
 とある。
ホームズ: 先生、「阿斗の桑市」とありますが、桑を売る市がここにあったのでしょうか。
ワトソン: いや、そうじゃない。市がこの大和川の岸辺にあったんだろうが、たぶん桑を売買していたのではなく、桜井の椿市(つばいち)は椿を売っていたのではなく、 周辺に椿が多く植わっていたためにそう名付けられたのと同様、この辺りには桑畑が広がっていたため、そう名付けられたのだろう。
ホームズ: 桑畑がそんなにあったのですか。
ワトソン: そうだよ。戦前の地図を見ると、この大和川の旧堤防沿いには桑畑が並んでいる。
 この辺りは古くから養蚕が盛んで、それに因んだ神社も多い。近くの川西町の寺川の西に島の山古墳があるが、その西側に比売久波(ひめくわ)神社を云う古社があって、 久波御魂神(くわみたまのかみ)則ち桑そのものがご祭神として祭られている。また寺川の東には糸井神社がある。この辺りは古代の養蚕、絹糸の大産地だったんだ。

太子道に沿って、この辺りが古代の養蚕、絹の大産地であったことが神社名からも覗える。

比売久波神社の鳥居。右に島の山古墳の堀が見える。西側の堀の南端から堀に沿って長い参道が続く。(南から撮影)



 また、河べりの市は河港があるのが普通だが、この板屋ケ瀬という名も河港をイメージさせるものだ。
 実際、窪田の中寧氏所蔵の江戸時代の窪田の絵図には、この橋のたもとに「茶屋」と書かれたものがある。これは河港であった証拠のように思えるんだが。

 窪田・中寧氏所蔵

ホームズ: へぇー、そうなんだ。
ワトソン: 船着き場の痕跡がなかったか、先ほどの古老に尋ねたところ、子供の頃の思い出で、それらしい石組が約1間間隔で並んで河に突き出していて、その近くは深かった。よく、褌いっちょで飛び込み台代わりにして、飛び込んで遊んでいたとの話を伺った。
 また、「そこに仕掛けを沈めて、魚を捕っていた。」と言って納屋に直してあった網や仕掛けの瓶を出してこられた。
 船着き場として割合近い時代まで使われていたのかも知れないね。
 また、大和川改修前には、この辺りの民家は旧堤防にへばりつくように、「吉野建て」(川べりの旅館のように1階か2階か分からない建て方)であったそうだ。
 また橋の西の石灯籠のある所の少し広い旧堤防の上には昔、人家が並んでいたそうだ。まさに、河港の雰囲気が残っていたんだろうね。
 その堤防上の石灯籠は今も残っているが、港の目印、灯台の役目をしていたのかも知れないね。

旧堤防は新堤防の内にあるが、ここだけ旧堤防が広かったので今も新堤防からはみ出して残っている。この石灯籠横の堤防上に人家が並んでいたそうである。

旧堤防上の明治の石灯籠。河川改修でも位置は変わっていないそうである。(東より撮影)



ホームズ: なかなか興味深い場所ですね。 しかしここ以外にも、阿斗の候補地は無いのでしょうか。
ワトソン: よく、候補に挙がるのは、河内の跡部と田原本の阿刀村だが、先ほどの推古18年の記事で、前日に「京(みやこ)に到達した」とあるから、すでに大和に到達したので、河内の跡部ではまずい。
 また、額田部氏と膳氏という阿土のすぐ近くに居た豪族の名が登場することから、田原本より可能性が高い。
 そもそも、安堵町に阿土の地名があること自体、歴史研究家に意外と知られていないようだ。阿斗とは安堵のことだとか、変な解釈をしている人も多い。
 実は中窪田の古老に私が「阿土」という言葉を使って尋ねると即座に、今は「阿土」ではなく「北窪田」と呼ぶのですよ、と諭れたんだ。
 この「阿土墓地」は見晴のよい高台になっており、眼下に大和川を見下ろす風光明媚な場所で、迎賓館を設けるには絶好の地だ。
 第0章で紹介した、岡本精一氏の本によると、後に「阿土の館」は「阿土寺」に変わり、その寺のなごりが今も少し残っているものの、すべては墓地に変わってしまったようだ。
 文献で、それを確かめようとしたが、分からない。
 中窪田の95歳の古老にも聞いたが、「上窪田には、わしより年上の物知りの方がおられたが、もうみんな亡くなってしもうた。」ということである。
 たぶん、岡本精一氏は、そのとき、まだご存命であったその老人の口から、直接聞かれた話を書留られたのだろう。

飾り馬の隊列が行進した道

 しかし、ここに「阿土の館」があったことの最大の証拠は、この太子道だ。 ホームズ君、以前わしへの質問で、どうして非常に幅の広い道を造ったのかと聞いたね。覚えているかい。
ホームズ: 勿論、覚えていますとも。今も不思議に思ってます。
ワトソン: 太子が馬で通われるだけなら、そんな広い道は必要ない。推古18年の記事では、その翌日、飛鳥の朝廷に到着しているのだが、賓客を乗せた飾り馬の隊列が阿土から出発して飛鳥へ進む、壮麗な行進が目に浮かぶではないか。
ホームズ: そうか、外国の客を歓迎する、目を見張るような大行列が太子道を進んで行ったんですね。なるほど、そのために広い道をつくったのか。外国の客もさぞかしびっくりしたでしょうね。
ワトソン: そう、そこだよ。太子の目的は正にそこにあったんだよ。太子の時代以前(太子の時代も含めて)、日本の政治は、諸豪族が力を持ち、統一国家と言えない状態だった。その上、朝鮮半島の3国の争いに巻き込まれ、 国内も血生臭い事件が相次ぎ、独立国と言えない状態だった。
 太子はこの日本を後進国から、諸外国と対等な真の意味で独立した先進国にしようとした人物だ。官僚制度を整え、仏教を広め、私心のない「和の精神」に基づく、理想の国家、理想の政治を行おうとした。
 そのために遣隋使を派遣して、対等な独立国として大国・中国に認めて貰おうとした。だから、外国の使節に日本はすごい国だとアピールしたかったんだ。この長大な道を築いたのもそのためだろう。
ホームズ: そうだったのか。先生、大変いいお話を伺いました。ますます太子が好きになってきました。今日はどうも有難うごさい・・
ワトソン: おいおい、まだわしの話しは終わってないぞ。
ホームズ: まだ、続きがあるんですか。それは後の章で伺いますから。
ワトソン: いや、それではまずいんだ。この章でないと。
ホームズ: そうですか。しかたが・・いえいえ、是非聞かせて下さい。
ワトソン: 先ず、1つ目は、この板屋ケ瀬橋から阿土への道の痕跡らしいものが不思議なことに残っているんだ。
ホームズ: 本当ですか。阿土まで直ぐそこなのに。
ワトソン: そうだな。この地図を見てご覧。この辺りの北は、工業団地が広がっているんだが、それと民家の境、ここは今ブロック塀になっているんだが、どうだ斜めになっているだろう。その上、南へ延長すると丁度旧の板屋ケ瀬橋の所へ出るんだ。
ホームズ: 本当だ。でも昔はどうだったか分かりませんよ。
ワトソン: たしかに、そうなんだが、条里復元図の所にも田畑の境界線として描かれている。少なくとも所有地の境界、しかも斜めの境界だったことは確かだ。これを北へ延長すると、小字名「アドノマエ」を通り、阿土墓地の中央部へ向かう。
ホームズ: うーん、話としては面白いが、しかし何とも言えませんね。
ワトソン: わしもそう言い切る自信はないがね。しかし、もし阿土に館があったなら、橋へ向かうこう云う斜めの大道があったとしても不思議ではない。わしが太子なら、阿土から始まる大道を造っただろうね。
 阿土から下り、橋を渡り、行列が太子道を進む。・・想像するだけで、楽しいぞ。
ホームズ: そう言われたら、あったはずですね。そして、その痕跡が残っていた。なるほど発見ですね。おっしゃる通りです。

ワトソン: やっと認めてもらえたようだな。それじゃー、次に別の話しをしよう。
ホームズ: まだあるんですか。
ワトソン: そう言うな。これからが本題だ。
ホームズ: えっ。
ワトソン: それは、太子がこの板屋ケ瀬橋を架けるのに、少なくとも5〜6年はかかったと言うことだ。
ホームズ: どうして、そんなことが分かるんですか。どこかに記録が残っているんですか。
ワトソン: いや、どこにも直接の記録はない。わしの推理だ。
ホームズ: へぇー、面白そうだ。聞かせてください。
ワトソン: 実は、推古18年の記事の前、推古16年の記事に小野妹子と一緒に来た隋の役人、裴世清について
  「秋8月3日に、唐客、京に入る。この日に飾馬75匹を遣わして、唐客を海石留市(つばいち)のちまたに迎ふ。額田部連比羅夫(ぬかたべのむらじひらふ)、以ちて礼辞を告す。
   とある。
 18年の記事に似ているが、阿斗の館ではなく、桜井の海石留市に於いて、同じ額田部連比羅夫が飾り馬で出迎えている。

 桜井の海石留市近くの川べりに作られている飾り馬の像。

 なぜだろう。折角、賓客を迎える館もあるし、太子道もすでに出来ていた。(第6章で説明するように。道を作り始めたのは、遅くとも推古9年ごろだと想像されるので、道は推古11〜12年頃には出来ていたと想像される。)
 しかも、この道は先に考察したように、賓客歓迎用の道なので使わない手はない。
 それなのに使わなかったのは、まだ橋が完成していなかったからだと考えるのが、自然だ。
 つまり、残念ながら橋の完成が間に合わなかった。推古16年では無理で、18年には完成していた
ホームズ: うんうん。なるほどね。しかし、橋を築るのに、そんなに年数がかかるものですか。
ワトソン: 小さな川だったら簡単だけど、大河川では大変だ。難工事の場合には人柱を立てたりしたと云うことをよく聞くね。
ホームズ: うーん、そうなんだ。
ワトソン: もしかすると、何らかの妨害にあったのかも知れないが。
 これは余談だが、今のコンクリートの板屋ケ瀬橋が渋滞緩和のために片側2車線に拡幅工事をしていたんだが、その工事に何年かかったかなぁ。6〜7年かかっていたと思うよ。これは、予算の関係だったと思うがね。ハハハハ。
ホームズ: 関係ないでしょう、先生。

新たな接続道

ワトソン: いまのは冗談だ。そこでだ。板屋ケ瀬橋の完成が太子の飛鳥・斑鳩間の通勤経路に影響したと思うんだ。
ホームズ: どうしてですか。
ワトソン: 考えてもご覧、太子は馬で通われたんだよ。杵築神社間の橋は、太子の時代はどうだったか分からないが、とにかく小さな橋か渡し船だ。馬は当然嫌がるので、渡るのに苦労したと想像できる。ところが、板屋ケ瀬橋は立派な大きな橋だ。
ホームズ: そうか、完成後は遠回りでも板屋ケ瀬橋を渡って斑鳩へ行かれた。
ワトソン: たぶん、そうだと思うよ。
ホームズ: すると、阿土から斑鳩へ行かれた。
ワトソン: そうじゃない。橋を渡った所が上窪田だが、上窪田から、安堵へ行かれたんだ。
ホームズ: どうしてそんなことが分かるんですか。
ワトソン: ちゃーんと、その道が残っている。これを見なさい。上窪田の西端に東安堵へ向かう斜めの道の痕跡が残っている。そして、東安堵には例の大道幼稚園を少し南へ下った所で急に道が東へ曲がっていたね。これを延長するとぴったり上窪田の斜めの道を繋がる。驚くほど。

   

ホームズ: 本当だ。ぴったり一致しますね。すると太子は板屋ケ瀬橋完成後はこの道を通られたということか。

   電子国土は歪みがない。

ワトソン: だから、折角作った中窪田への直進路も、多分使われ無くなった。
ホームズ: なるほど、こんなに時系列的に、道の変遷が分かるなんて。
ワトソン: 全くだね。本当に不思議だ。君もそう思うかね。
ホームズ: ええ、先生の聖徳太子のお力を感じると云う気持ちが分かります。
ワトソン: さぁ、今日の話はここまでだ。長々とわしの話に付き合わせて悪かった。
ホームズ: いえ、いえ大変面白い話でした。有難うございました。また呼ばれたら、次は喜んで来ますよ。
ワトソン: それは、有り難い。ではまた。

 この章のまとめ




   この章の結果は上図にまとめられる。

 @三宅道である。
 三宅道は直進していたと想像される。これは、延長線がぴったり池跡の東縁に沿って通過することから確信した。
 この道は伝承通り、現在の油掛け地蔵(写真で、道が大和川にぶつかる手前田圃中の十字路にある。)の少し西を通り、旧大和川堤防にぶつかる。
 油掛け地蔵は後世に作られたかも知れないが、太子が休まれたとの言い伝えのある地蔵堂は元々@とBのT字路が交わる場所にあったと想像される。
 寺川の流路に妨げられず、道が直進していたことから、太子の時代の寺川は別の所を流れていたと考えるのが自然である。

A安堵道である。
 東安堵町に残る安堵道をそのまま延長すると中窪田の旧杵築神社の手前に達する。
 この道の痕跡は中窪田の集落の空き地、路地、および集落北の田圃中の公道として残っており(私の発見)、ほぼ確実である。
 古老の証言から、この道の終点に推古式7重の石塔があったと考えられる。

Bは私が見いだした道で、三宅道と安堵道および板屋ケ瀬橋を結ぶ直線路
 この道の一部が旧吐田杵築神社の参道として残されていたが、昭和の大和川改修で消滅した。太子は最初この道の西端から川を渡り対岸の安堵道Aに進まれた。この道幅は橿原考古学研究所の条里復元図で2つ字にまたがるほど広かったと想像される。

C板屋ケ瀬橋
 この位置は昭和初期までの橋脚の礎石の一部が川中に残っているので確認できる。
 これは太子が初めて架橋した大規模な橋で熊凝精舎(額安寺)が維持管理した。
 この完成にはかなりの年月を要した

D板屋ケ瀬橋と阿土の館Dをむすぶ道
 痕跡が一部残っている。
 太子道は2つの目的を持っていた。
  (1) 阿土の館から都へ外国の使節を飾り馬を使った大行列で送迎するための大道。
  (2) 太子の斑鳩宮と推古天皇の小治田宮の間を行き来するための道。
 非常に幅の広い道にした理由は(1)にある。

E 板屋ケ瀬橋と額田部の熊凝精舎Hを結ぶ道(推定)
 奈良時代の額田寺・条里図には額田部への直線道の痕跡が見当たらないので、「太子道」として特別に整備されなかったのかも知れない。

F 板屋ケ瀬橋と上窪田の西とを結ぶ道(推定)
  EFは一直線と仮定した。 この道は安堵町の「大道」につながるので、Gと共に幅広の直線路であったと想像される。

G 上窪田と東安堵を結ぶ新しい道
   板屋ケ瀬橋完成後、太子はこの道を通り、飛鳥まで通われた。


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