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GPS考古学序論




筋違道の謎を解く


第0章 序論

第1章 筋違道入門

 若草伽藍の礎石の話   

第2章 筋違道のなぞ

   

第3章 GPSデータの解析

   

第4章 安堵町以北の解明

   

第5章 安堵道と三宅道の接続の解明

   

第6章 多以南の道の解明

   

第7章 上宮への道(磐余道)



数奇な運命の一本木と駒繋ぎの石



四国へ渡った駒繋ぎの石

   

第8章 斑鳩宮への道


太子道(筋違道・すじかいみち・日本最古の官道)の謎を解く−−−筋違道の研究


 第7章 上宮への道(磐余道)

T.なぞの道


 ワトソン: 
ホームズ君、お待たせした。
 ホームズ: ああ、やっと再開ですか。全く待ちくたびれてしまいましたよ。
 ワトソン: すまん、すまん。さて、謎解きの続きをしよう。
 ホームズ: どの続きですか。
 ワトソン: 忘れたかも知らないので、復習から始めよう。
      第6章で飛鳥へ行く道と、耳成山へ向かう道があったが。その「耳成道」の続きだ。
      これが、その終点の樋口神社の航空写真だ。
      明かに、現在の社殿も斜めを向いて建っているのが分かるだろう。
   

  赤矢印で指した社殿が斜めを向いている

     

    耳成山へ等距離で接する特別な場所にあることが分かる



 ホームズ: 確かに。 ところで、この神社は聖徳太子が建てた神社ですか。
 ワトソン: そんな訳は無かろう。”太子は寺を建てても神社は建てない。” 
      地元の人が道跡の空き地利用として後に建てた神社だろう。  ほら、敷地も傾いている。
 ワトソン: さて、この「耳成道」は、どこへ行くための道だったのか。
      「耳成行宮」はその名の通り、道建設のための「仮宮」だから、目的地ではない。
      どこに通じていたのか。 ヒントは、その位置だ。
      航空写真で分かるように耳成山を回って、山の向こう側に行くのに無駄のない位置だ。

  2本の道

 ホームズ: 2つに別れるのですか。
 ワトソン: たぶん、山の北回りと、南回りの道だろう。  
      前にも言ったように、山の北側に米川が流れていて、日本書紀にも推古9年の記事で
      ”夏五月に天皇、耳梨の行宮に居まします。是の時に大雨ふり、川の水ただよいて、宮庭に満てり。”
      とある。
      地元の方に伺うと、今でも山の北側の川添いはよく水に浸かる所だそうだ。
      そのために2本の道を用意したのだろう。
 ホームズ: 山を回ってどこへ行くのですか。
 ワトソン: その疑問に答えるのが、この章の内容だよ。
      そのための重要な手掛かりが、聖徳太子の”駒繋ぎの石”だ。

  駒繋ぎの石

 ホームズ: ”駒つなぎの石”?
 ワトソン: 八木−桜井間の伊勢街道沿いにある民家の横に置かれていた石で、聖徳太子が愛馬「黒駒」をつない
         で休まれたと伝えられる石だよ。
 ホームズ: どこにあるのですか。
 ワトソン: それが・・・。
      10年程前、伊勢街道を歩いたときには確かにあったのだが、太子道を調べるようになって再び街道を
      くまなく探したが全く見つからない。
      記憶にあるのは、地図のマークの辺りのはずなんだが。

   

 ホームズ: 妙な所にあったのですね。
 ワトソン: そうなんだよ。
      もし、耳成山からの道にあったとすれば、道は南東の方角、太子の故郷「上宮」へ向かう道だ。
 ホームズ: 大変重要な石なんですね 。しかし、その肝心の石が見つからないなんてね。
 ワトソン: いや、見つかったのだが、何と今は”四国”にね。

 元の民家横にあったときの駒つなぎの石の写真

   現在は四国の安楽寺にある駒つなぎの石



 ホームズ: えっ、本当ですか。
 ワトソン: 嘘ではない。
      しかし、話は込み入っているし、本題から逸れるので、対話文でなく、”地の文”で説明しよう。

 U ゆくえ不明の駒つなぎの石


 この謎を解く鍵である「駒つなぎの石」は残念ながら今はありません。
 私は記憶にある元置かれていたと思われる民家をようやく探し出し、お話を伺うことが出来ました。

 石は元々 「一本木」 のそばにあった。

 この石は元々、その民家から伊勢街道沿いに東へ約100m程行った「一本木」(橿原市石原田町)
 という場所にあったそうです。
 「一本木」というのは、その名の通り、街道にあった巨木で、永く街道の目印となっていた為、
 その名が地名となったとのこと。  
 文献によると巨木の側には、小さな塚があり、駒つなぎの石はその塚の上か横に置かれていたようです。
 たぶん太子は、ここで駒をとめて、木陰で休憩を取られたことでしょう。
 しかし、その「一本木」も今は姿かたちもありません。
 ある事情で木と石はその民家横に移動させられ、そして更に、今は四国へと移されたのです。
 これらの話は大変興味深いですが、本来の謎解きとは関係ありませんから、興味のある方は、  
  詳しくは

      別稿 ”数奇な運命の一本木と駒繋ぎの石と、

      別稿 ”四国へ渡った駒つなぎの石 

   をお読み下さい。

 石の元あった位置を調べる


 さて、GPS調査のためには駒つなぎの石があった場所を正確に知る必要があります。  
 上述の石のあった家の方に伺っても、亡くなった先代のことなので、どこから運んできたのか、
 古い事は分からないとのこと。  
 そこで、古くから住まわれている方を探していると、空き地の柿の木に登って、実を採っているご老人を見つけて
 声をかけた。  
   「ここが一本木のあった場所や、わしが小さい頃にはあったが・・。この辺はな、今でも郵便物はただ一本木
   書くだけで届きよる。」
  と自慢げに話された。
 その空き地は飛鳥から北へ近鉄耳成駅へと延びる道が東西に走る伊勢街道と交わる古くからの要衝にある。
 すぐ南には「地蔵前橋」があり、その交差点の北には、大きなお地蔵さんが、その空き地を背に立っている。

          
    

 南方をみる。地蔵前橋を経て飛鳥へ行く道

     

     西方をみる。伊勢街道が続く。



   「さあ、どこにあったか。たぶんこの辺りやったと思うが。」 と空き地の中央あたりを指さした。
   「駒つなぎの石は。」 と尋ねると
   「昔のことでよう覚えとらん。 」
   「 さあーなあー この辺りの者で、覚えとるとすれば、90になる・・さんのお婆さん位かなぁ。」
 そこで、近所に居られる、そのご老人宅を訪ねた。
 出て来られるか不安だったが、秋の小春日和にさそわれて、
   「ああ、良いですよ。行きましょう。」 と空き地の前まで出て来られ、
   「丁度、このお地蔵さんの後ろ、そうです。その辺りにあったように思います。」
 その90歳のご老人しか知らない貴重な位置を教えて頂いた。

 これでGPS調査の重要ポイントの1つが判明しました
 全く親切なご老人と小春日和に感謝です。

V 解決のための方法論

  不明なもう1点

  筋違道は直線路ですから、原理的には2点が分かると、それらを通る直線が決まるはずです。
 つまり駒つなぎの石に加えてもう1つが分かると良いことになりますが、そのT点が皆目不明です。
 どうしたらよいでしょう。

  早速ホームズ君を呼んで、相談をしましょう。

 ホームズ: 先生も、お困りのようですね。三人寄れば文殊の知恵とか言いますから、僕もお役に立つと思いますよ。
 ワトソン: それは有り難い。・・と言っても、君は、実際に現地調査していないし・・
 ホームズ: ええ、その通りですが、解決するための方法論ぐらいだったら、アドバイスできると思いますよ。
 ワトソン: 方法論
 ホームズ: それは、先生が以前におしゃっていたことですよ。
      科学は先ず「仮説」を立てる。そして仮説から導かれる諸々の結果が現実をうまく説明できるか?
      もし出来れば、それは真実により近い。
      自然科学の場合は種々の実験という関門をパスすれば「法則」と呼ばれるようになる、と。
 ワトソン: なるほど、その通りだな。
 ホームズ: そこで、仮に大胆にもう1点を設定して、どうなるかを検証しては如何でしょうか。
 ワトソン: なるほど。「発見的方法論」だな。
 ホームズ: 先生の今までの議論は大抵そうでしたから。・・
      たとえば、第6章の「飛鳥道」では新賀町の市来島姫神社の斜行路と醍醐町の斜めに並ぶ礎石近くの
      2点を通るとの仮定から、
      延長線が丁度甘樫の丘頂上に至り、反対方向の延長が太子井戸を通る。
      また道のすぐそばに「道山」の名称の小丘があったとか。
      偶然の一致にしてはうまく揃い過ぎていることが、推測の根拠でしたね。・・
 ワトソン: うーん、さすがはホームズ君、その通りだね。
      しかし、最初の仮説も全くアトランダムに決めるのではだめだ。
      ある程度理にかなった説得力のあるものでなければね。
      そのためには、熟慮を重ねて、思いつく仮説を何度も変更する勇気も必要だ。
 ホームズ: そうですね。
 ワトソン: よし。 ホームズ君のアドバイスのお陰で謎解きの第2歩を踏み出すことができそうだよ。

W 磐余池(いわれいけ)をさがす

 手がかりは「磐余池」

  日本書紀によれば磐余池辺雙槻宮(いわれいけべなみつきのみや)に住まわれていた父の用明天皇
 (池辺天皇)は太子を寵愛し、宮の南の上宮(かみつみや)に住まわせたとあるので、
 磐余池辺雙槻宮のそばにあったことになります。
 つまり、「磐余池」のあった場所が判れば、太子の住まわれていた「上宮(かみつみや)」がほぼ判るかるはず
 です。
  「磐余(いわれ)」とは、桜井市の南部から橿原市の香具山の北東山麓にかけての地域だといわれていますが、
 現在、これに関連して有力な候補地が2つあります。

   @. 桜井市南部の「上の宮」遺跡

   A. 橿原市の東池尻町付近


 桜井市上の宮(うえのみや)遺跡説

 
 @の説は
  昭和63年の遺跡調査で6世紀末から7世紀初頭の大型の建物と脇殿風の建物、回廊、敷石遺構などが見つかり、
 地名から聖徳太子ゆかりの「上宮」ではないかという説で、
 南1km余り離れた場所に石寸(いわれ)山口神社があることも、根拠とされた。

 しかし、この説にはいくつか難点があります。
 i) 近くに磐余池の痕跡がない。
    「上の宮」や石寸(いわれ)山口神社の辺りには、大きな池の痕跡がないし、更に北の平野部では遠すぎる。
    また、平野部に堤で囲んで池を築くのは後世のことで、古く履中天皇まで遡ると言われる磐余池では考えにくい。
 ii) 太子の「上宮」は、古訓では「かみつみや」あるいは「かみや」で、「うえのみや」ではない。
    
たとえば太子ゆかりの斑鳩の葦垣宮の傍の小字名は「神屋」である。
    桜井のそれは南北に長いゆるい傾斜地の高所にあり、後世に地元の神社に関連して「上の宮」と名付けられ
    た可能性が高い。
 iii) この「上の宮」の南西部一帯は、古代の豪族阿部氏の領域である。
    阿部氏の氏寺の阿部寺のあった所で、そのなごりが安倍の文殊院として残っている。
    この遺跡も阿部氏関連の居館遺構である可能性が高い。

 橿原市東池尻町の巨大池跡


 近年、香具山の北東山麓で広大な古代の池跡が確認された。

         

 今は、一面の水田と化しているが、十数年前、西隣にある御厨子(みずし)観音を訪れたとき、ふと、ここは、
 池跡ではないかと直感したほど、きれいに保存されている。
 
    
                 池の西北(御厨子観音側)から南を見る。

 ゆるやかな山裾にあり、池跡の水田北側を一段高くなった民家集落がさえぎりるように並んでいるが、明らかに堤
 の上に建てられたものだろう。
 半島のように突き出た山が池を手指のごとくに深く二股に修飾している。 すばらしい景色である。

     
                  発掘現場から池を見る

 飛鳥に近いが、訪れる人も無く、のどかな所である。

 磐余池を詠んだ万葉集の有名な歌に

  大津皇子の被死らしめらゆる時、磐余の池の堤にして涙を流して作りましし御歌一首

   ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ 
                                                    (巻三 416)

     
                         大津皇子の歌碑 
       ( ここが磐余池との断定を避け 婉曲に 写真家入江泰吉の文を引用している )


 まさに処刑されようとする大津皇子が、屋敷の訳語田舎おさだのいえ 池から北東に約1km強離れた
 桜井市戒重にあった。) からこの池を訪れて、辞世の歌を詠もうとした心境がよく分かる。
 池は戒重から歩いても、30分もかからない所です。
 実際、私は途中の吉備池から歩きましたが10分程度しかからなかった。
  この風景を眺めていると、まさに”百伝(ももづたう)池”に相応しいと実感する。
  

  ここは 磐余 である


  さて、ここが”磐余”に含まれるか、どうかであるが。
 あるとき、堤にある小さな畠を耕していた、まもなく90歳になると言う御老人との立ち話で、
 堤の西にある小高い森のあたりを指さして
 ”昔からな、このあたりの人はあそこを「皇居」と呼んでいます。”
 と耳を疑うような言葉を聞いた。  
 詳しく尋ねると御厨子観音の北奥の一段高い所にある御厨子神社の辺りをそう呼んでいるそうある。
 あとで調べてみると第22代清寧天皇の「磐余甕栗宮(いわれみかくりのみや)」の推定地であった。
 このことからも、この辺りは”磐余”に含まれる地である。
 

     御厨子観音堂  南から写す

 下の大門から直で登る御厨子神社の石段 東から写す 


X 父・用明天皇の磐余池辺雙槻宮跡の発見?


 平成23年この堤の東側の道路工事の際の発掘調査で一群の建物跡が見つかった。

 人工的に造られた堤であることが確認された。
 堤の上に6世紀後半〜7世紀前半に造られた建物群は池と同時期に存在した。
 最も古い建物は大壁建物で、渡来人が池の造築に関係していた事が想像される。
・・ 等々。

 この池が磐余池であったなら、まさに池辺天皇(用明天皇)の宮跡であろう。

 例の如く、断定的に”用明天皇の宮跡発見”と大きく新聞報道された。

 また、二股になった池跡だけでなくその東側まで広がった巨大な池であったことが近年の調査から分かった。

     


Y 磐余道の出発点の想定


 耳成山から、太子の「上宮」(かみつみや)へ通じる筋違道を”磐余道”と呼ぶことにします。
 太子が住まれていた磐余が出発点(起点)ですが、「上宮」は「書紀」や「上宮聖徳法王帝説」の記述から用明天皇
 の磐余池辺雙槻宮のすぐ近くであると想像できます。
 前節の考察から、香具山山麓の巨大な池跡が有力な候補地です。さて、その何処に道の起点があったのでしょう。

小字「大門」


 図の地図をよく見ると、池の堤の西端に「大門」という小字がありますが、
 その区画が4辺形ではなく3角形になっており、しかもなんと「耳成山」へ向いているのです。

       
                            「大和国条里図」橿原考古学研究所編より

       
        小字「大門」(左の赤い旗から右のブルーシートまで)、畑地の境界線が耳成山へ向いている

 この「大門」と云う名称は奈良時代、吉備真吉備が今ある神社の辺りに御厨子(みずし)山妙法寺という寺を
 建て、その山門がそこにあったからだそうです。
 現在の御厨子観音はそのなごりの観音堂です。
 しかし、条里の境界は100mほど西のところを南北に走っていますから、門をつくるならそこが適しています。
 しかも明らかに斜めを向いています。
 当時まで斜めの道・筋違道が残っていて、その道の終点に山門を建てた可能性が大いにあります。

Z 驚くべき結果


 これで、「駒つなぎの石」と磐余池の「大門」の2点の候補が決ったから、あとはGPSで測定した値で2点を
 結ぶ直線を出すだけです。
 直線計算から、いくつかの注目すべき結果が得られました。

     

 (A) 直線の延長は耳成山周回路への接線となり、その接点には丁度「耳成山口神社」
    への参道の登り口がある。

 
    
        山にぶつからずに山への接線となる。              接点に山口神社への登山口がある 

 耳成山と仮の「磐余道」がぶつかる地点を調べると、山に直接ぶつかるのではなく、その山裾北東部に接する
 位置になります。
 これは、この章の初めで述べた樋口神社から山を北回りで来た道「磐余道」接続するとすれば、
 最短コースです。
 元々筋違道が直線路であるのは「道が出来るだけ最短となるように」設計された訳ですから、これは
 まことに合理的な結果です。
 また「筋違道」は古代の大道ですから、この接点の要衝に神社への登り口が設けられたのも肯けます。

 (B) 結ぶ線上に丁度、神社があり、その敷地が斜めになっている。


 「大門」と「駒つなぎの石」との間に、出合町があるが、その村社の「春日神社」の境内を丁度通り、
 しかも敷地の形は斜方形になっています。  
 樋口神社と同様、道跡の空き地を利用して後世村民が神社を建てたものと思われます。

          


 (C) 膳夫(かしわで)の芹姫伝説のある家のすぐ傍を通る。


 道は橿原市膳夫町(かしわでちょう)にある芹姫伝説のお宅のすぐ横10m程のところを通ります。
 これは驚くべき結果です。
 太子の最愛の后、膳夫郎女(かしわでのいらつめ)は、「上宮聖徳法王帝説」では、斑鳩の豪族、
 膳部加多夫古臣(かしわでのかたぶこのおみ)
の娘となっており、歴史家の殆どはそう信じています。
 しかし、道ばたで病弱な養母のために芹を摘んでいた膳夫の農家の娘を太子が見初めて、后としたと云う伝説が
 真実であったことになります。

    第1章の  膳部郎女(かしわでのいらつめ)について の記事を参照。 

 太子は亡き養母のために草庵を建て、その管理料として田畑を与えたと伝えられています。
 事実、膳夫町には「貰田(もらいだ)」の小字があり、そこに「貰田」家が1400年の間、芹姫の像と掛け軸を祀って
 住まわれている事の重みは簡単に無視出来ません。
 その草庵は膳夫寺になり、現在はそのなごりの保寿院が残っています。

   膳夫寺の後身の保寿院(虚空蔵寺)

 三柱神社 膳夫は宮中の食事を掌る職務で 台所の神 三宝荒神を祀る


「貰田」さんとの話


  私は「貰田」さんのお宅を訪ね、お話を伺いました。
 すぐ側を筋違道が通っていたことになると云う私の話に別段驚かれた様子もなく、
  「この家は太子の時代から少しも移動していません。昔は聖徳太子様から戴いた一町四方の土地のその角に
  あったのですが、長い年月の間に先祖が土地を売っていき、この家の敷地だけになってしまいました。」
  「何か家に困り事がある度に、お姫様に手を合わせて、”お姫様、どうかお助けください。”とお願いしています。」
  「命日(翌日は太子の命日でもある)には、お寺さんに来ていただいて法要してもらっています。」
  「この辺りも継ぐ人が無くなった家も増えているので、将来が不安です。」
  と話されたが、     最後に、こう付け加えられた。
  「しかし、”こくぞうさん”だけは何とかお世話しようと思うてます。」
  と。
  ”こくぞうさん”とは保寿院の本尊・虚空蔵菩薩のことで、後世、聖徳太子は虚空蔵菩薩の生まれ変わりと考えられていました。
 太子ゆかりの額安寺法輪寺広隆寺には有名な像があります。

 [ 結果の考察


 以上のことから、磐余道(上宮への道)は「駒繋ぎの石」と「大門」を結ぶ直線路に間違いないと思われます。
 このことから、推測される事柄は

  i) 池跡は、「磐余池」である。

 磐余池であると仮定して、道を設定した訳であるが、逆に、上述の結果は仮定が正しかった事を示している。

  ii) 「上宮(かみつみや)」は「大門」からそれほど遠くない所にあった。

 正確な「かみつみや」の位置は不明である。

  iii) 太子の后・膳夫郎女(かしわでのいらつめ)は伝説にあるように膳夫町の農家の娘で
    あった。

  iv) 推古6年頃から、筋違道の計画あるいは建設が始められた。

 「聖徳太子伝歴」によれば、膳夫郎女を后にされたのは、推古6年(太子27才)であり、
 筋違道を通うのに使われた愛馬「黒駒」が甲斐の国から献上されたのも同じ年であることから、
 斑鳩宮建設(推古9年)より3年前の推古6年頃から、筋違道の計画あるいは建設が始められた可能性が高い。

\ 耳成山の南周り迂回路


 ホームズ: すごい結果が得られましたね。
 ワトソン: 本当だね。
 ホームズ: しかし、まだ僕には少し気になることが残っているんですが。
 ワトソン: 何かね。
 ホームズ: それは、この章の初めの話では、耳成道の終端・樋口神社から山の北を回る道と南回りの2本の道が
      あったはずだと、言われましたね。
      今の話は北回りの道でしょう?
 ワトソン: その通りだ。
 ホームズ: するともう一つ南回りの道があったはずですね。
 ワトソン: ホームズ君の言う通りだ。その話をしよう。
 ホームズ: 是非、お願いします。
 ワトソン: まずこの地図を見てみよう。


                                             「大和国条里図」橿原考古学研究所編より
      駒繋ぎの石と一本木があった場所は伊勢街道(黄色の線)がかなり南へ湾曲した部分にある。
      伊勢街道は昔は横大路だが、その幅が地割の考察から推定されている。 (千田稔 「横大賂と周辺の歴史       地理」より)
      それが図の青線だ。  明らかに横大路から大きく外れている。
 ホームズ: 本当だ。 しかし、もう少し東に行った神社の所でも、北に大きく外れていますよ。
      ここだけではないですよ。
 ワトソン: うん、そうだが、よく地図を見てご覧。
      南を米川が平行して流れているが、そこは川は南東から東西に向きに流れを変える所だ。
      条里図の小字の境界線を見ると、昔は流れが北に大きく湾曲していたことが読みとれる。
      当然、道は流れを避けて湾曲せざるを得なっかったんだろう。そう言う箇所は他にもある。
      しかし、一本木の所は逆に川へ接近するようにわざわざ曲がっている。なぜだろう。

      それから、一本木の所の条里図をよく見る
      と緑線で囲んだ小字の境界線(点線)が斜
      めになっているのが分かるが、これが昔の
      道の南限だとすると。・・
      その延長線は。・・
 ホームズ: あっ。耳成山へ向かう。
 ワトソン: 今度は耳成山の図を見てみよう。
      樋口神社から南まわりでいくと、山の南にある池の北岸の道へ出るが、その道を真っ直ぐ延長すると。・・・

    

 ホームズ: あっ。一本木へ向かう。
 ワトソン: そうだろう。  面白いね。
       たぶん、これが、第2の道だ。一本木の所で北まわりの道と合流したんだろう。
 ホームズ: うまく出来すぎてますね。
 ワトソン: それがまずいのか。
 ホームズ: うーん、それは現代の地図を元にした話でしょう。
       聖徳太子の時代とだいぶ変わっているはずですよ。
 ワトソン: ところが、そうでも無いんだ。
       地元のご老人と耳成山の麓でお会いしたとき、 「あんた、この山を何で”みみなし”山と呼ぶんかご存じか
       ?」   と問われて答えに窮していると。
       「この山は他の山と違うてな、すそ野がなく ストンと山から田圃に落ちてるからや。
       今は田圃でなく道路や住宅地になってますが。昔も同じです。
       山の耳(=すそ野)が無いので”耳無し山”とゆうんや。」
       と教えられて、はじめて合点がいったんだ。
       本では梨の木が生えていたからとか、色々な説が載っていたが、いずれも首をかしげる話だったが。
       云われてみれば、確かに畝尾山(畝傍山)はその名の通り山裾には畝のように長い尾根が幾条もあるし、
       香久山も磐余池まで続く長い尾根をもっている。
       たぶん耳成山の本当の山裾は地下深くに埋もれてあるのだが、下は分厚い堆積層に覆われて、
       比較的急峻な山の上部だけが顔を出しているのだろう。
 ホームズ: なるほど。だから、山裾の線は昔とそんなに違わないという訳か。
 ワトソン: わしは、そう勝手に解釈しているのだが。
 ホームズ: この2本の筋違道、似たような話どこかでも聞きましたね。えーとー。
      そうだ。 第5章の安堵道と三宅道の接続で、
      元々安堵道が大和川を渡るのはその真っ直ぐな延長、 中窪田の杵築神社の所から対岸の杵築神社間
      だったが、大きな板屋ケ瀬橋が出来ため、阿土ー安堵間に新たな斜めの道が作られた話。
 ワトソン: さすがは、ホームズ君よく憶えていたね。
 ホームズ: あのときは、後に作られた板屋ケ瀬橋のコースが残り、 元の直進コースが廃れたとありましたが、
      耳成山の場合はどうなったのですか。
 ワトソン: たぶん、川の氾濫が多い最初作られた北回りの山口神社−駒繋ぎの石コースが早く廃れ、南回りの
      コースが残ったものと思われる。
      それは最初のコースの痕跡が殆ど残っていないのに対し、南回りのコースの痕跡が伊勢街道の湾曲として
      明瞭に残っているからだよ。
      筋違道より少し後に作られた横大路推古21年に作ったとある)もたぶん、一本木のあたりはこの太子道
      を使って南へ振っていたかも知れない。 ”聖徳太子に敬意を払ってね。”
 ホームズ: なるほど。 そうですね、きっと。 そうでないとその後身の伊勢街道が曲がって残るはずがないですね。
 ワトソン: ああ、言い忘れたことがある。 それは、この耳成道や磐余道は後世まで残存していて、使われていた        可能性がある。
      例の聖徳太子の妃、膳手郎女の生家の貰田さんの家では、毎年、太子と膳手の妃の命日の法要には、
      近くのお寺ではなく、約5kmほど離れた例の聖徳太子の井戸のある新ノ口の善福寺さんから、わざわざ
      来られるそうだ。 今の道なら大変な距離になる。 たぶん、近世まで、斜め直線路(太子道)残っていて、
      それを使って来られていたのだろう。
 ホームズ: へぇー、今も、別の形で筋違道の痕跡が残っているのですね。

      今日も、素敵な話どうも有り難うございました。

X 第6章・第7章の結果

 
      得られた結果を地図上に描くと。
      図(1)                                  (国土地理院 電子国土より)
      
       A:「大門」  B:芹姫伝説のお宅  C:出合町の神社  D:一本木  E:山口神社登り口
       F:木原町「樋口神社」  G:醍醐町「海犬飼門」跡  H:新賀町「市杵嶋神社」の斜向道

    図(2)
 
                                                  (国土地理院 電子国土より)


まとめの図(1) 斑鳩町 安堵町 川西町 三宅町  第1章,第2章,第3章,第5章 より


     
                                                    (国土地理院 電子国土より)

 まとめの図(2) 川西町 三宅町 田原本町  第1章、第3章、第6章 より


     
                                                (国土地理院 電子国土より)

まとめの図(3) 田原本町 橿原市 第1章、第3章、第6章 より


      
                                             (国土地理院 電子国土より)

まとめの図(4) 橿原市   第6章 第7章 より




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