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GPS考古学序論




朱の王国と神武による大和侵攻


第1章 朱との出会い

第2章 神武伝説の地を訪れる

  

第3章 神武伝説の謎を解く

 住吉大社の埴使
     

第4章 神武宇陀占領と天神山、黒塚古墳

   

第5章 崇神と邪馬台国の女王

   

第6章 武埴安彦の乱

第7章 壱与と物部の謎

   

第8章 天照の復興と女帝

   

朱の王国(邪馬台国)と神武(崇神)の大和侵攻

'                   (2017.5.23)

第0章 GPSから大和誕生物語へ

 ◎ はじめに

 
今まで考古学に全く素人である私が、発掘調査なしに、何らかの考古学上の成果を得ることが出来たのは、GPSという新たな道具使った数値計測のお蔭です。科学的なデータに基づいて、得られた新知見を今まで発表してきました。
 あるとき、 古墳の方位の相関 に関心をもった私の友人は、
 「あの話の続きはどうなっているのか」
 とあたかも私が連載小説の続きの執筆をさぼっているかのように聞いてきます。
 「僕は科学的に調べているだけで、古代史の専門家でない者に、それ以上の事は分かる訳がないだろう。小説やノンフィクション作家のような話を期待されても困る。」
 と答えていました。
 しかしその後、大和の古代史に関心を持ち、調べていくうちに、次第に自分なりのストーリーが描けるようになってきました。
 「もしかしたら、こんなことが古代大和を舞台に起こったのではないか」
 と想像できるようになって来たのです。
 そこで今回は科学的な方法から離れて、大胆な推論に基づく「大和誕生物語」に挑戦しようと考えました。
 今までのような、科学的な立脚点がないため、全く憶測の域を出ないのですが、いくつかの考古学的事実と、歴史文献に基づき、それらの謎解きを、私の経験を交えながら話を展開したいと思います。
 しかしながら、単に全くの空想ではありません。何冊かの本を読んで感じたことは、それぞれの著者は真実に肉薄しているのだが、さらにもう一歩のところで躊躇しています。  私がGPSで見つけた初期3古墳の時間的順序(「王位継承仮説」参照) を先人の考察に付け加えれば、大和の太古代史の謎が解けるのではないかと考えるようになってきました。
 私は古代史の専門家ではありませんが、大和に住む人間として、実地見聞した内容を含めて、歴史の謎解きをしようと思います。
 関心を持たれる方は、私の話にお付き合いください。

  
      桜井茶臼山古墳後円部より三輪山と箸墓古墳を望む (昭和25年 第1次調査報告書より)

第1章 朱との出会い

 まず、最初のレポート以後得た、いくつかの私の新たな知見を紹介します。

◎ 桜井茶臼山古墳

       
                   桜井茶臼山古墳を北西からみる。

 私がGPSを使って、古墳の方位を調べ始めたのは、2009年の春ごろだった。箸墓古墳を手始めに、行燈山古墳、そして茶臼山古墳を調べたのは、その年の盛夏であった。汗を拭いながら、GPSを片手に地図とメモ帳をもって、茶臼山古墳の周囲の道なき道を辿り、測定して廻った。古墳の周囲には人気は全く感じられなかった。

 しかし、後で分かったことであるが、そのとき、後円部の墳頂では橿原考古学研究所による石室の再調査が行われていたのである。最初の石室の調査は、昭和24〜25年で、数々の遺物、特に碧玉製の玉杖の発見は、被葬者がこの地の王であったことを示すものであると注目された。それから60年ぶりの発掘・調査であった。



                  第1次調査で発見された碧玉製の王杖

     その現地説明会が10月末に行われ、大勢の見学者と一緒に参加した。 

  
                       公開された石室

    
                 天井石は紅色の朱で塗られていた。

 前方部から後円部の墳頂へ見学用の木の階段が設けられ、巨大な天井石の一部が外されて、石室が覗けるように開けられていた。足下に置かれた天井石は美しい薄紅色の朱で塗られ、石室全体、隅々まで今まで見たこともない朱色に覆われていることに強い衝撃を受けた。当時貴重だった水銀朱200kg以上がふんだんに、使われているとのことだった。
 その後の調査で、発掘土の中から見つかった大量の鏡の破片の分析から、11種、少なくとも81面の銅鏡が埋納されていたことが判明した。まだ、判明しない破片を含めると、100枚を優に越えるものと推定されている。これは、33面の三角縁神獣鏡が見つかり、世間の注目を集めた黒塚古墳を大幅に上回る枚数である。
 なぜこれほどの鏡が埋納されたのか、そして、鏡はすべて小さな断片に壊されていたのは何故か。
 また、後円部の頂に埴輪の原型の器台で取り囲まれた祭壇のようなものがあり、さらに今回調査でその周りを取り囲んで多数の木の柱が林立していたことが判明した。
 この茶臼山古墳は、私がGPSで調べて明らかになった方位相関のある3古墳の中で最も古いものであると思われるが、定説では、出土遺物から、箸墓古墳の方が古いと言われている。
 果たして、私の説が間違いなのだろうか。後述するように、大量の朱と断片化された銅鏡の発見が、この謎の解明のための重要なヒントとなった。

◎ 田中八郎氏の本との出会い。


 奈良県には、数多くの公立図書館があり、歴史の宝庫と言われるだけあって、いずれの図書館も古代に関する歴史書は充実している。また県内の遺跡の発掘調査報告書の類も揃っている。特に有り難いのは、各市町村発刊の地史で、私もそのお陰で、細かい郷土の歴史や社寺の由来等の勉強が出来た。
 私の住む奈良盆地南部は古代の歴史の舞台であったにも関わらず、考古学研究所や大学のプロの研究者を除いては、私のように市井の人間で地域の歴史を調べている人は少ないように思っていた。
 しかし、図書館で手にした本がそれは間違いであることを教えてくれた。
 その本は桜井市で、ペンションを経営するかたわら、自らを「大和の語り部」と称して、土地に根ざした民衆の視点から「古代大和」を紹介し続けている田中八郎氏の2册の本「大和誕生と神々」と「大和誕生と水銀」だった。
 どちらの本も筆者が「大和弁」と称する独特の語り口で書かれ、鋭い洞察力と大胆な想像力で、どこまでが真実で、どこからが作り話かわからない彼独自の「古代大和」の世界へいざなってくれる。
 1册目は、大和王権も手出し出来なかった縄文以来の三輪山の信仰を軸に、古代大和を紹介している。この本は筆者の思い入れが強すぎる感もあり、私がむしろ関心をもったのは、2册目の「大和誕生と水銀」である。
 茶臼山古墳で大量の水銀朱を目の当たりにして衝撃を受けた私にとって、その本の表題は、まさに探していた当のものを見つけた思いがした。

 田中氏は、宇陀や吉野を詳細に調査され、隠された真実を明らかにしている。

 (後日、田中氏にお会いして直接話を伺ったことであるが、氏は毎日のように桜井の自宅から車で、宇陀や吉野に出かけ、調べられたそうである。私も大和を研究していると言うと、『大切なことは、研究する対象を、日帰りで行って戻れる範囲にすることだ。泊まりがけでないと行けない所の研究はやらない方がよい。』とアドバイスを受けた。まさに正論である。労を惜しまず足繁く現地に通わなければ出来ない研究こそ、市井の我々だけが成し得る特権であろう。)
   
   
                       室生口大野にある「海神社」

 彼は、先ず、宇陀川沿いに、2つの「海神社」があることに注目した。
( ここで大和の地理に不案内な人のために解説すると、宇陀川は木津川の支流で、途中、名張川と名称を換えて東流し、大和盆地の東に広がる海抜4〜500mの広大な大和高原
ーー大和盆地の東を垣根のように北は三笠山から南は三輪山まで連なる、いわゆる大和青垣山はその広大な大和高原が盆地に落ち込む西縁の断層崖に過ぎない。つまり大和青垣山とほぼ同じ標高の高原がその東に広がっているのである。ーー
 その高原の東縁を北流して伊賀上野の西で木津川本流に合流する。
 その後西流して笠置を経て、南山城で向きを北に変え、八幡辺りで淀川に合流して、大阪湾にそそぐ。)

 海から100kmを優に越える距離隔たっているが、これら2つの神社は、海から川を遡行して、交易の舟がやって来た川港の名残だろうと彼は言う。この交易品とは宇陀で採れる辰砂(水銀朱)である。
 不老長寿の薬効があると信じられ、また高貴な赤色顔料として、魔除け、皮膚病の薬、死体の防腐材等、様々な用途に使われ、当時、特に海外・中国では金と同等・それ以上の価値のあるものと珍重されていた。
 事実、紀元前200年頃に、秦の始皇帝の命を受けて、この不老長寿の仙薬を求めて徐福が日本へやって来たと伝えられている。 
 また、「史記」に、先祖が丹穴を見つけたことで、数世に亘る財を成した寡婦の話が出てくる。
 朱砂のことを「辰砂」と云うのは、中国湖南省にある「朱」の産地である”辰州から出る砂”に由来する。
(誤解されない為に付け加えると、無機水銀は、重金属としての毒性を持つものの、水俣病で問題となった有機水銀に比べると、比較的に毒性は低いものである。例えば、虫歯の穴を塞ぐアマルガムは水銀と貴金属の合金である。)

 私の調べたところでも、名張川沿いには、多くの金比羅神社があり、木津川は日本書紀に別名「輪韓川(わからがわ)」(=倭韓川の意か?)と呼ばれると書かれているので、国内のみならず海外との交易があったことが窺える。
 また、流域の要衝には、交易の才に長けた秦氏が居住支配していたと思われる地名がある。(神波多や蟹はた)
 この朱の交易は木津川水域に留まらず、三輪山を越え、大和盆地を流れる大和川も利用された。その交易の中心が巻向の「大市」だと彼は主張する。
 田中氏はまた、宇陀・吉野地方に多くある水分(みくまり)神社が、水の神を祭る神社ではなく、水とは無縁な、朱から水銀を取り出す古代の精錬所の跡に祀られたものであること数多くの証拠に基づき明らかにしている。
 (朱は化学的には水銀Hgと硫黄Sの化合した硫化水銀HgSであるが、これを焼けば容易に分解して、水銀が蒸気として発生する。 この水銀蒸気を冷やして蒸留すれば、液体の水銀が得られる。)

◎ 松田寿男氏の「丹生の研究」


 田中氏以前に、松田寿男氏による先駆的な「丹生(にゅう)の研究」がある。
 彼は全国各地に点在する「丹生」という地名のある場所を訪れ、その土地の岩石試料中の水銀含有量を調べた。
 その何れの地も水銀含有率が高いという結果から、丹生とは丹=朱を産出する辰砂鉱山があった所を意味することを、実証的に明らかにした。
 漢字の「丹」は、和製漢字の丼のように、地表に現れた辰砂を縦穴式に堀り進んで行って出来る朱砂採掘井戸の象形文字である。
 日本ではこの丹生(辰砂地帯)は日本列島の中央を東西に走るいわゆる地質学の「中央構造線」に沿って分布している。特にその中で、宇陀を中心とした大和には豊富な水銀鉱脈が現在も存在する。
 松田氏の言葉を借りて言えば、
 『それにしても、中央構造線上の水銀鉱床の上に、大和が実に特別な重要さを見せていることだけは確かである。この事実が、日本の太古代史に結びつかないとは、誰がいいきれるであろうか。丹生の名を今に伝えている地点の数から見ても、たとえこの地方が古代日本の政府所在地であったために、必要上から多くの鉱山が開かれたという考えを無視できないにせよ、大和はおそらく最高といえよう。』

◎ 日本の太古代史ー大和の朱と鉄

 
 この松田氏の言葉と田中氏の考察から、なぜ「日本の一地方にすぎない大和、海も無く、大きな河川も無く、文明の先進地である大陸からも遠くへだった、山に囲まれた小さな盆地の大和に、古代王権が生まれたのか。そして、それが日本の中心として、何世紀も続いたのか。」の答えは明白であろう。
 丁度、アリが甘い蜜に集まってくるように、朱という富を得ようと野望を持った人々が集まって来たからだ。そう考えるのが自然だろう。
 しかし、現代人は朱の貴重さを知らないため、歴史学者は「鉄」の重要性を説く。
 確かに鉄は、武器、刃物、工具、農機具等様々な用途に使え、人類社会の発展に欠くべからざる物として貢献してきた。歴史も動かしてきた。その重要性は現代でも変わらない。
 だが「金gold」を考えてみて頂きたい。鉄に比べると、全く有用性は無きに等しい物であるにも関わらず、現代でも、鉄より遙かに価値の高いものとして扱われている。
 朱も古代のある時期には、金と同様に珍重されていたと考えるとどうだろう。
 そして、この朱が、重要な鉄を交易・輸入する対価として使われた可能性は充分にあるのではないか。
 歴史学者は、古代日本では、鉄需要のほとんどを、朝鮮半島南部の伽耶地方からの輸入に頼って来たと考えている。しかし、鉄輸入の対価として何が使われていたのかは、不明であると言う。
 まさにこの対価物として「朱」が支払われていたのではなかったのか。
 こう考えるならば、今まで看過されてきた「朱」の歴史的重要性に気づくだろう。 
 「朱」という財政基盤があってはじめて「大和」に強力な王権が誕生し得たのでは。そして、大和の歴史のみならず、ひいては日本の古代史を動かす原動力となったのでは。
 この視点から、古代大和史を見直せば、どうなるだろうか。
                   
        第2章 神武伝説の地を訪れる へ 

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