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GPS考古学序論朱の王国と神武大和侵攻第1章 朱との出会い第2章 神武伝説の地を訪れる第3章 神武伝説の謎を解く住吉大社の埴使 第4章 神武宇陀占領と天神山、黒塚古墳の謎第5章 崇神と邪馬台国第6章 武埴安彦の乱第7章 壱与と物部の謎第8章 天照の復興と女帝 |
朱の王国(邪馬台国)と神武(崇神)の大和侵攻(2017.7.31)第5章 崇神と邪馬台国の2女王の墓、桜井茶臼山古墳の被葬者◎ 神武の大和侵攻はいつ起きたのかそれでは、この事件が起こった時代は何時なのだろう。 その手がかりは、中国の歴史書と日本書紀、それと私がGPS測定で明かにした初期3古墳の方位相関関係である。 もう、そろそろ明かさなければならないのは、この「朱の王国」・「プレ大和政権」とは、いわゆる「邪馬台国」であると考えるのが自然だろう。 前に述べたように、この大和の古い農村の行事や祭りを見れば明らかに「出雲」が今も生きている土地である。つまり、「部族連合の長老支配」の名残が今も根強く基層として存在する。 さらに古い「プレ大和政権」では当然、外来勢力はそれを尊重した形の政権にならざるを得ない。 「魏志倭人伝」の言う 「女王を共立する」体制を取らざるを得なかったものと思われる。 その女王「卑弥呼」は多数の識者が今や認めつつある「箸墓」の主、日本書紀では「やまとととびももそひめのみこと」と呼ばれる人物である。 ◎ 中国の歴史書による記述しかし「後漢書・東夷列伝」によれば、前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして、楽浪郡を設置してからは、 『倭から使いを送ってくる国が30ばかりあり、国ごとに王と称するものが居て、世襲制である。その大倭王は邪馬台国に居る。』 とあるので、卑弥呼以前、もしかすれば、前漢の時代(紀元前)から、大和には「大倭王(男王)」がいたことがことになる。 当然、辺鄙な大和であるから、朱の富を基盤にした政権「朱の王国」であろう。 そして『安帝の永初元年(紀元後107年)倭国王の帥升らは生口160人を献上して、皇帝の謁見を願って来た。』 『桓帝・霊帝の頃(146〜189年)に倭国の国内は混乱して、各国が戦い、何年もの間統一した君主がいなかった。』 いわゆる「倭国の大乱」である。『その時、一人の女子がいて、名を卑弥呼と言った。既に年長になっていたが、結婚せず、鬼道に仕えて、衆を惑わす。』とある。 (私は占いを行う巫女であったと考えるが、その名から「日巫女」=「太陽に仕える巫女」であったと想像する。) 『ここに於いて、共に立てて王となす。』 (日巫女であった人物を女王に共立する。)とある。 以上は「後漢書・東夷列伝」の記事に依ったが、「魏志倭人伝」によれば、 『その国(邪馬台国)は、元々男子を王としていた。その治世は70〜80年、倭国は乱れて相い争うこと暦年。ついに、共に一女子を立てて王とする。・・・』とある。 そして『景初2年(238年)女王卑弥呼は大夫・難升米らを帯方郡に使いを送って皇帝に朝献したいと言ってきたので、魏の都まで送って行かせた。』 ここで、魏王は大変喜び、有名な「親魏倭王」の金印や「銅鏡百枚」を含めた数々の品を使節団に賜った。 そして卑弥呼は正始元年(240年)、正始4年(243年)、正始6年(245年)にも帯方郡へ使いを送っている。 『正始8年(247年)には、隣国の狗奴国の男王との争いを訴えるので、帯方郡の役人「張政」らにそれを諫めた手紙を預け、卑弥呼に届けたが、手遅れで、卑弥呼は既に亡くなっていて、径百余歩の大きな墓を造った。』とある。 『新たに、男王が立ったけれども、国中服せず、相争って殺戮し合った。そこで、また、卑弥呼の後継ぎの13歳の女子の「壱与」を王にしたところ、国中が遂に収まった。』とある。 『そこで、張政は壱与に諭す文書を書いて手渡した。そこで壱与は使節団をもって郡まで張政らを送り届けた。また、生口を始め、貢ぎ物をした。』とある。 ◎ 3古墳の方位相関 と 3古墳の被葬者の推定ここで、我田引水の謗りを覚悟の上であるが、私のGPSによる「初期巨大古墳の方位相関 (王位継承仮説)」を思い出して頂きたい。 多くの識者が認めるように、箸墓古墳が卑弥呼の墓であると仮定する。 (私のGPS計測による「箸墓古墳と夏至の太陽」でも、 被葬者が「夏至の祭祀」を主宰する”日の巫女(ヒミコ)” であったことが明らかになっている。) 、すると 桜井茶臼山古墳がその前の王、そして行燈山古墳(伝崇神天皇陵)が卑弥呼の次の王と言うことになる。 しかし、地元では、最初の大王墓(=崇神天皇陵)はその南にある、 柳本古墳群中最大の渋谷向山古墳(伝景行天皇陵)と言い伝えられている。 ( もし仮に行燈山古墳が侵入者・崇神の墓とするならば、その陪塚である天神山古墳、黒塚古墳に鏡類を隠匿する事など有り得ない話である。 この事実からも、行燈山古墳が崇神天皇陵でないことは明らかである。) ◎ 茶臼山古墳は 箸墓古墳より古い。卑弥呼以前の「大王」の墓である可能性。ここで、以下のような疑問が当然出るはずである。もし桜井茶臼山古墳が卑弥呼の箸墓古墳より古いならば、仮に卑弥呼の擁立を西暦200年頃と仮定すれば、 その前の王は「暦年に及ぶ倭国の大乱」以前である (倭国の大乱が恒帝・霊帝の頃とすれば、それ以前の西暦140頃となる ) から、「魏」以前、後漢時代(西暦200年以前)の可能性がある。それなのに、なぜ茶臼山古墳から魏鏡である「三角縁神獣鏡」が発見されるのか。 これは、明らかに矛盾している、と。 しかし、黒塚古墳、天神山古墳の例を思い出して頂きたい。 神武による宇陀占領により、「朱の王国=邪馬台国」の財宝の鏡類を古い古墳に隠そうとしたわけであるが、黒塚古墳の場合は合掌型石室であって、石室を開けて鏡を隠すのは非常に困難であるにも係わらず、大掘削工事を行って、秘蔵作業をしている。 しかし、茶臼山古墳の場合は、石室は同じ竪穴式であるが、天井石があり、それを外せば、いとも容易に石室内に入れる。 当然、鏡の隠し場所として、茶臼山古墳も選ばれたはずである。否むしろ適している。 もしそうであれば、古墳造営時より時代的に新しい鏡が発見されても何の不思議もない。 この茶臼山古墳は、古墳の規模、巨大な石室、大量の朱、そして碧玉製の王杖、後円部墳頂の祭祀基壇とそれを取り囲む木の柱列、いずれを採っても、大王墓にふさわしいものである。 復元想像図 (橿原考古学研究所) 茶臼山古墳 後円部墳頂には祭壇があり、その周りは壺と林立する多数の丸太柱で囲まれていた。 中央の祭壇で火が焚かれていたと思われる痕跡(炭)も見つかっている。 この「木の埴輪」とも言える古墳上の建造物は、纏向遺跡で最も古いと考えられる「纏向石塚古墳」やその傍にある 「勝山古墳」でも見つかっている。 その周壕から出土した木材の年輪による年代測定の結果は、西暦177年+α、および西暦198年+αである。 つまり、纏向遺跡のそれら2つの古墳は卑弥呼が亡くなる以前の2世紀末から3世紀初頭に造られたと考えられる。 このことから、同様な「木の埴輪」をもつ、茶臼山古墳は「卑弥呼以前に造られた大王墓」である可能性が大である 茶臼山古墳は椿市を眼下に見下ろす位置にある そして、その立地条件も、宇陀から盆地に下った正にその場所にあり、朱の交易に適した所である。 古代の有名な椿市(つばいち)を眼下に見下ろす「市の支配者」にふさわしい場所である。 また、海から大和川を遡って来る交易船の航路の安全を祈る「宗像神社」が古墳のすぐ傍にある謎も解ける。 また、銅鏡の大量の微小破片の発見は、弥生時代末期の風習である、いわゆる「鏡の破砕副葬の儀式」が、大王の埋葬の際に執り行われたものと想像される。 それは、鏡の破片が被葬者の北枕の頭部付近に集中して見つかったことからも想像できる。 つまり、この古墳は、弥生時代の風習を未だ残す「弥生時代と新しい古墳時代の境に位置する最古級の古墳」 と見なして良いのではないだろうか。 それと共に、発見された倭製の「巨大な内行花文鏡」(八咫の鏡)の一部は、後の「邪馬台国」にとって 最重要な鏡であり、その隠し場所としてこの古墳が選ばれたものと思われる。(破損しているのは、後の盗掘により壊されたのだろう。) 以上の理由から、桜井茶臼山古墳が中国歴史書「後漢書・東夷列伝」に言う卑弥呼以前の男王、すなわち同じ邪馬台国(=大和国)にいたという「大倭王」の墓である可能性が極めて高いと言えよう。 もし、私の推論が正しいならば、古墳時代の開始は大幅に、古い時代にさかのぼることになる。 また、この茶臼山古墳は”柄鏡型”のシンプルな墳形で古墳軸も正南北に向いている。 この形が前方後円墳の”原型”であったとすれば、私には納得し易い。 ( 同じ”柄鏡型”の墳形をもつ”メスリ山古墳”が近くにあるが、墳頂に巨大埴輪列をもつ点で、茶臼山古墳とは異なる。) ◎ 行燈山古墳の被葬者は「壱与」であるそれでは、GPSでは、箸墓の次に来る王の墓、行燈山古墳の被葬者は誰だろうか。 卑弥呼の後、再び男王が立ったとあるが、その男王であろうか。 そんな筈はない。上に引用した「魏志倭人伝」の1節を読めば、帯方郡からの役人「調政」 が邪馬台国に留まっている間に、卑弥呼の死から男王の再興、内乱、そして壱与の擁立までが為された訳であるので、 短期間で潰れた男王のために、巨大な古墳を造ることはあり得ない。 当然、次の女王「壱与」であろう。 そして、神武が来たときには、古墳が完成していた訳だから、「壱与」はすでに亡くなっていたのだろう。 行燈山古墳には、幾つかの陪塚が存在する。前方部のすぐ前に2つ、そして、少し離れて、天神山古墳、黒塚古墳がある。 それらは「壱与」に縁のある人物が埋葬されていると考えられる。 前述のように、天神山古墳は、神武侵入の時点で、造築途上であったと考えられるから、「壱与」の死から余り年月が経っていなかったかも知れない。 「壱与」死後、「邪馬台国」はどうなっていたかは中国の歴史書「魏志倭人伝」では不明である。 ◎ 「神武」は「崇神」であるところで、「大和」に侵入し、「邪馬台国」を滅ぼした「神武」とは誰であろうか。 それは「伝説の神武」と同じ尊称を持つ人物だろう。「かむやまといわれ彦」は天皇となり、 「はつくにしらすすめらみこと」(初代天皇)と呼ばれたとあるが、全く同名の「はつくにしらすすめらみこと」と呼ばれた第10代の崇神天皇がその人であろう。 「神武」が「崇神」である、より決定的な証拠は、次章(第6章)の末尾で述べたい。 崇神天皇は三輪山の麓で椿市のあった地・現桜井市金屋の近くに「磯城瑞垣の宮」を造ったとされる。 まさに、椿市は大和川の河港で大和の交易の中心地であり、大和征服者に相応しい。 そして、その墓は、前述したように、柳本古墳群・最大の古墳「渋谷向山古墳」である。 この巨大古墳は「邪馬台国」の2人の女王が眠る「箸墓古墳」と「行燈山古墳」の丁度真ん中、 両古墳を威圧して分断するように存在するのである。 しかも、地元では、この「渋谷向山古墳」は 初代の大王の墓であると言い伝えられている。 また、この「渋谷向山古墳」の墳型は前方部が「箸墓古墳」や「行燈山古墳」のように、 ”バチ型”ではなく、別系統の形(むしろ”柄鏡型”に近い形)をしている。 この天皇の正式の名は「御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにえのすめらみこと)」である。 韓にある日本の出先である「任那(みまな)」と関係があるように、日本書紀では記すが、私は「邪馬台国」の都・奥津城である「御真城(みまき)」に初めて進軍し進駐したのを記念した名だと想像する。 (近くに、巻向、槇野内などの地名が残っている。) この崇神大王は、邪馬台国の諸国の共和による体制と異なり、四道に将軍を派遣するなど、大王直轄の政治を行った。 大和では、当然のことながら、民の逃亡、餓死が絶えず、国内の混乱は収まらなかった。 そこで、三輪の大物主、大和の国魂、それと天照大神、それぞれ祭主を決めて丁重に祭ったところ、 やっと落ち着いたとある。 地神である大物主、大和の国魂と共に、皇祖神であるはずの「天照大神」を「祟りの神」と見なしている点に注意されたい。 つまり「天照大神」は決して皇祖神ではなかったのである。 私は、「天照大神」とは、崇神が滅ぼした「邪馬台国」の、偉大な初代女王であった「卑弥呼」の霊であると想像する。 そして、2代目の女王「壱与」(台与)の死後に、崇神の大和侵攻がなされ、「女王国」が終焉し、世襲の「男王」支配の国家に生まれ変わったと考える。 この事実は、中国の歴史書「梁書」の「倭伝」の以下の記述からも覗える。 「...、正始中(240-248)、卑弥呼が亡くなり、交代して男王を立てたが、国中が服さず、誅殺しあったので、女王に戻し、卑弥呼の宗女「台与」を立てて、王にした。その後、また、男王が立ち、いずれも中国の爵命を受けた。」 とある。 卑弥呼の死後、男王に替わろうとすると、激しい抵抗に逢い、女王制が維持されたわけであるから、2代目女王「台与」の死後、男王制にすんなり替わるわけがない。 その交代は、単なる内紛の結果ではなく、神武紀にみられるような外来勢力による、財政基盤の辰砂地帯の制圧を含めた、大和への侵略および征服が行われた結果であろうと想像される。 このことは次章で詳しく述べたい。 第6章 武埴安彦の乱 へ ○ このページのトップへ |