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GPS考古学序論




朱の王国と神武大和侵攻


第1章 朱との出会い

第2章 神武伝説の地を訪れる

  

第3章 神武伝説の謎を解く

 住吉大社の埴使
   

第4章 天神山、黒塚古墳の謎と神武の大和侵攻

   

第5章 神武の正体と邪馬台国

   

第6章 武埴安彦の乱と崇神が初代天皇の証拠

   

第7章 壱与と物部の謎

   

第8章 天照の復興と女帝


朱の王国(邪馬台国)と神武(崇神)の大和侵攻


第6章 武埴安彦の反乱

                        (2017.8.6)
 崇神天皇の強権支配は大和の地に大混乱をもたらした。
 そして、大和占領後、最大の悲劇が大和のすぐ北、木津川のほとりの南山城を舞台に起こったのである。

 なぜ南山城なのか、ここで朱の交易が行われた場所を思い出そう。

  南山城と邪馬台国


 第1章で述べたように、宇陀の辰砂の海外との交易は、大和川木津川の両河川の水運を利用して行われたと思われる。
 大和川流域では、交易の市は三輪山の麓の椿市(つばいち)並びに巻向の大市(おおいち)が考えられる。
 木津川流域では田中氏の云うように、朱の積み出し港は上流の宇陀川にあったであろうが、実際の朱の交易の市は下流の川幅のより広い南山城にあったものと想像される。
 それは、後世の川港の多さや前期古墳の分布を見ても分かることである。
 南山城には、図のように、多くの前期古墳が分布し、交易による富の蓄積がなされたことを物語る。

   
                    赤が前期古墳         (京都府立山城郷土資料館 提供)

椿井大塚山古墳


 特にその内で木津川が西流から北流に向きを変える南山城には第4章で紹介した全長180mを越える最大規模を誇る前方後円墳・椿井大塚山古墳が存在する。前述したように、ここで36面以上の鏡(内32面は三角縁神獣鏡)と刀剣類、そして大量の朱が発見された。

       
           椿井大塚山古墳     どこに古墳が隠れているのでしょう?
         (ヒント 前方部には人家が建っている。 後円部はJR線で断ち切られている。)

 終戦直後のため、工事で石室が破壊された上、鏡類が盗まれたが、後に取り戻された。
その顛末は梅原末治氏の「椿井大塚山古墳」に詳しい。
 工事担当者の証言によれば、棺には大量の朱が、棺の外の壁際には大量の鏡が置かれていたようで、通常見られる玉類や宝飾品は皆無であったらしい。これは、前述の天神山古墳や黒塚古墳とそっくりである
 ただし、竪穴式の石室には天井石があり、これを取り外せば、容易に石室に侵入できるわけで、崇神の大和侵略時に宝物の隠し場所として使われた可能性が高い

 この地は「邪馬台国」に属するか、あるいは同盟関係にある有力な小国家があったものと想像される。
それは、小林行雄氏によるここで発見された三角縁神獣鏡の詳細な研究から、これと同笵(同じ鋳型から作られた)関係にある鏡が日本各地で確認されており、これらは「邪馬台国」から各地に配布されたものであると考えられているからである。

 

 大和が崇神により占領されたとき、邪馬台国武力集団であるいわゆる「長髄彦」は逃走したが、大和を離れた兵の主力部隊が隣地である南山城に隠れ移り、その地に留まったと考えられる。
 なぜなら、峠を隔てた大和とは友好関係にある地であり、木津川天然の堀の役目をする絶好の隣地である。
 また朱の交易で栄えた地でもある。

 しかし、崇神王朝に気づかれてしまう。 

 乱の発端


  崇神紀に従ってその発端から見てみよう。
 大和を征服した崇神全国制覇のため、四道将軍を派遣する。その一人「大彦命」は北陸に派遣されたが、途中、和邇坂あるいは、奈良坂を越えて、山城に行こうするとき、一人の少女が奇妙な歌を歌うのを聞く。

  「御間城入彦よ、命を奪おうと狙われているのも知らないで、姫遊びしているよ。」

 魏志倭人伝によれば、邪馬台国の卑弥呼は、千人の女官達に囲まれた「男子禁制」の宮に住んでいたとあるので、崇神が征服したときでも、女官達の住む宮が残存していた可能性がある。  その「女人の館で、うつつを抜かしていると、大変なことになるよ。」という警告の歌である。
 大彦は早速戻りその歌の事を告げると、やまとととびももそひめのみことが、卑弥呼のことであるが、欠史八代紀では、その伝説を詳細に述べることが出来ないので、卑弥呼伝承を述べるため、崇神の時代まで生存していたことになっている。) −−− しかし実際には、第5章で述べたように、崇神の大和侵攻時には、壱与は既に亡くなっていたので、次の代(3代目)の女王の時代になっていた可能性が高い。  男王の可能性もあるが、先の失敗例からして、壱与の後を継いだのは、やはり、女王だっただろう。−−−  もしそうなら、卑弥呼ではなく、崇神に捕えられたその3代目の女王が次のように助言したことになる。
 (この捕われた3代目の女王こそ、後に天照大神を伊勢に移したとされる伝説の「倭姫」ではなかったかと私は想像する。
 『武埴安彦(たけはにやすひこ)が謀反を起こそうとする兆候だ。私の聞くとこでは、武埴安彦の妻、吾田姫が密かに天香山の土を採りに来て、「これは、大和の物実(ものしろ)だ」と云って帰って行ったと聞いている。
きっと兵を起こすに違いない。  手遅れにならぬようにしなさい。』 
 そこで、崇神は四道将軍の派遣を留めて協議した。
 そうこうする内に、武埴安彦は山城から、吾田姫大坂から(多分、二上山の麓・河内に潜んでいた「長髄彦」の残党を引き連れて)攻めてきた。
 崇神は五十狭芹彦(いさせりひこ、四道将軍の一人、西国へ派遣) に吾田姫の軍を攻撃させた。吾田姫を殺して、その兵士を残らず斬り殺した。(残忍さが分かる。)
 山城へは、大彦と和邇臣の遠祖である彦国茸(ひこくにぶく)を向かわせ、那羅山を越え、輪韓川(木津川の元の名。 倭韓川の意か。 韓との交易が行われていたことを示す名である。) を挟んで、武埴安彦と対峙した。
 埴安彦は  「お前はなぜ兵を起こしてやって来たのか。」  と彦国茸に尋ねたとある。
 この言葉は、「お前は私の部下であったのに、なぜ私を攻撃するのか。」と聞こえる。
 つまり、元々彦国茸埴安彦に仕えていたのではなかろうか。 ( すると、元々邪馬台国の武将であった彦国茸崇神側に寝返ったことになる。 日本書紀の文章がこの辺りから「武埴安彦」が「埴安彦」に変わっている。 私には埴安彦「長髄彦」のように思える。 理由は後ほど述べたい。)

            
                          南山城の地図

 ここで川を挟んで矢の射合いとなり、彦国茸の矢は埴安彦の胸に命中し亡くなる。
 埴安彦の軍勢はこれに怯えて退いた。
 追撃して川の北にある敵陣に乗り込んで打ち破り、首を斬り落とした敵兵の数は半数を越えた。....
   (残忍な描写が続く)...  死骸が満ちあふれた。
 そこを名付けて羽振苑(はふりのその放りの園祝園・ほうその)という。
 兵士は逃走し、屎が袴より漏れた。 (それで楠葉「くずは」という)
 また甲(かわら)を脱いで逃げた。 そこを「河原かわら」と云う。
 かなわぬと観念して頭を地面に叩きつけて助命を請うて「我君(あぎ)」と云った。
 そこを名付けて和伎(わき)と言う。....

 崇神側は如何に残忍で執拗な戦いを行ったかが良く分かる日本書紀の文章である。
 (これは通常の”いくさ”では考えられない。 勝敗が決した段階で、なぜ崇神側は戦いを終えなかったのか。 たぶん、強権的な王制を確立するためには、見せしめとして徹底的に叩き、民衆に恐怖心を抱かせる必要があったのだろう。
このことからも、崇神は大和への侵略者であったこと、つまり崇神王朝は征服王朝であったことが分かる。)

 それまでは平和であった土地に信じられない悲劇が起こったのである。
 その悲しみは癒えることなく、1700年の歳月を経た現代も尚その地に続いている


 木津川を挟んで向かい合う祝園神社(ほうそのじんじゃ)と対岸の和伎にある沸出宮(わきでのみや)で行われている居籠祭(いごもりさい)」がそれである。

  祝園神社の 「居籠祭」


  
                        祝園神社

    
          木津川左岸にある柞ノ杜(ははそのもり) この森の中に祝園神社がある。

  祝園神社は、木津川左岸堤防の傍にあり、悲劇の場所は神社の奥の深い森となっている。
 この森は「柞ノ杜(ははそのもり)」と呼ばれているが、「ははそ」とはクヌギやナラ等の落葉広葉樹のことであるが、「はは」とは大蛇をも意味し(羽羽は蛇のうろこを思い出させる名称である)、出雲系の神でもある。
 つまり、武埴安彦出雲系の民の首領であったと思われる。
 (私は、「邪馬台国」出雲系を基盤とする国家であったと考えている。)

 (この杜の過去を知ってか知らずか、この森の紅葉は、有名だったようで、定家の歌
   「時わかぬ波さえ色に泉川、柞ノ森に嵐吹くらし」  (泉川とは木津川のこと)
 のように多くの歌に詠まれている。)

 この闇の中で行われる奇祭である居籠祭の内容を植木行宣氏の文章(日本の神々5)から紹介しよう。

 『正月の申の日から三日間にわたって行われ、第1日(申) 風呂井の儀二日(酉) 御田の儀
 三日(戌) 綱曳きの儀 である。

 風呂井の儀は、社頭の森の中にある風呂の井と称する井戸へ神主が赴き、一子相伝の秘密の祝詞を奏し、たずさえて行った玉串を持ち帰って神殿に納めるというものである。
 神主と世話役の老人たちは前日から参籠し、当日の夜に入って神事となる。
 神主が往復する通路にはあらかじめ浄砂をまき、その出口と井戸の入口には左右に盛砂をして木鉾を立て、さらに一対の木鉾を交わり立てて道を閉ざす。
 浄砂の道は第二日の御田の祭場にも通じているが、これはまさに聖なる道であり、神主は玉串を捧げ、鈴をはげしく打ち鳴らしつつ、この道を行く。
 このとき神主には神がのり移っていると信じて村人は近づかず、見れば目がつぶれるといって望見もしない。
 一切の燈火を禁じた暗黒の闇の中で行われるこの神事にはいかにも神の発現を思わせる神秘さがいまもただよう。

 二日目の御田の儀は、日が暮れると世話方が大松明を拝殿に持ち込み、燧石できった火で点火したあと庭に立てる。 それに合わせて神主と松明持が参籠所から神前に出る。
 松明持はトモと呼ばれ、白衣に袴をはき、頭部を白布で桂包のように巻き、背中の帯のところに木製の唐鋤・馬鍬の作り物を帯び、右腰に榊一枝をさす。
 拝礼が終わるとトモは松明をかつぎ、祭場へ向かう。
 神主がそれに続くが、前夜と同様玉串を捧げ鈴を不断に打ち鳴らしつつ浄砂の道を進む。
 この鈴の音を聞くと村中が消灯し、かつては一切の物音を禁じて室内で謹慎した。
 やはり、望見は許されない。
 御田の儀はトモと神主だけで行われ、他見を許さず、付き添いの者も近づくことが出来ない。
 御田の次第は、祝詞 − 草刈り − 面つき − 田働き − 代掻き − 畝立て − 種まき、からなる。
 種まきは五穀の種を混合した種で行う。 この式が終わると両者は別々の道を帰社する。
 神前に供えられた同じ五穀の種は村人に分配される。

 三日の綱曳きの儀は秘儀の多い居籠祭のなかにあって、氏子一般が参加する唯一の行事である。
 南北に別れた氏子が竹の輪で作った綱を引き合って勝負を決める。
 勝方が別の場所まで綱を引きずって行き焼き払う。
 子供達は正月の書き初めを持参して火の中に入れ、燃えがらが高く上がるのを競う。
いわゆる年占いであり、勝った方に幸いがもたらされ豊作になると信じられてきた。...』(祝園神社・日本の神々5より)

 この居籠祭は当地に現れる怨霊を鎮めるために始められた行事で、その怨霊とは「武埴安彦」とも一説では「長髄彦」とも云われている

 湧出宮(わきでのみや)の 「居籠祭」


  
         湧出の宮    (JR奈良線・棚倉駅の東にある。)
 祝園神社の対岸、現在のJR棚倉駅のすぐ東側には、鬱蒼とした森が続いているが、これが和伎坐天夫岐売(わきにいますあめのふきめ)神社の杜である。
 この神社は、伊勢から天照大神荒魂が飛来したと伝えられ、そのとき一夜にして森が湧き出したので、「湧出宮(わきでのみや)」と呼ばれる
 対岸の祝園は、敗れた兵士の遺体が放置された河原であったが、和伎の辺りは弥生時代から古墳時代の多くの遺跡があり、「邪馬台国」時代には朱の交易で栄えた地であったと考えられる。
 この地に伊勢から天照大神を勧請したのも、この地の過去の栄光の時代「卑弥呼」の古き良き時代に戻りたい心情の表れであろう。
 当然、居籠祭武埴安彦の慰霊の為の祭が起源であったであろう。
 監視する王権の目から逃れるため、深夜にこっそりと深い森の奥の神社の社殿の中で明かりを消して行われたものと想像される。

 この居籠祭では、慰霊を目的とした内容は表面上含まれないが、神事は深夜、漆黒の闇の中で行われことは、祝園の場合と同じである。
 それに加えて、祭りは四つの宮座の長老達を中心に執り行われ、宮座間の饗応の儀に重きを置く点に違いがある。 これは第3章で私が述べた古くからの共同体の自治体制である「長老制」の名残が垣間見れる。

    
               「饗応の儀」の長老たち         (山城郷土資料館 提供)

         
     拝殿の中で行われる御田植の儀、松葉を苗にみたて、左の子は田牛ボーヨの役  (山城郷土資料館 提供)

  深夜に行われる点は、各地に今も残る「庚申」行事と共通する。これは、権力者の監視の目から逃れて、共同体の団結を確認する目的であろう。・・・「申(さる)」とは自分たち大衆を意味する。

 この南山城の地は、世間では余り注目されていないが、古い歴史を持ち、古くは「天の日鉾」の渡来、崇神朝以降も「神功皇后」の出自に関係する地だと私は考えている。 また、仁徳天皇の皇后「磐の姫」の「筒木の宮」が置かれた地でもある。、初期古墳だけでなく、中期古墳も多く存在する。
 誇り高い地だからこそ、この居籠祭も1700年もの間、続けられてきたのだと考える。

 この居籠祭は、南山城の地を襲った過去の悲惨な事件の記憶が今も消えずに残っていることを示すものであるが、   驚くことに、同じ悲惨な記憶を今に伝える場所が大和の根っこである天香久山の麓にも残っていたのである。
 
 次にその話をしたい。
 

  天香久山

      
             
                         天香久山

 哭沢の女神


 大和三山の中で、最も神聖視されている山が、天香久山である。
 その麓に謎めいた神社がある。
 香久山の西麓には 国立奈良文化財研究所飛鳥分館 があり、 主に飛鳥の宮藤原京の発掘調査を続けている。   その研究所の北隣にある神社である。
 名は「畝尾坐都多本神社(うねおにいますつたもとじんじゃ)」と言い、畝尾(うねお)は畝傍山の「うねび」ではなく、香久山の畝のような尾根を意味する。  「樹ノ下に居ます神社」とも言うが、祭神は哭沢(なきさわ)の女神で、  伊邪那美命が火の神を生んで亡くなったとき伊邪那岐命が嘆き悲しんで流した涙から生まれた女神と言う。
 昼でも暗いこの神社の奥にある井戸が御神体だそうである。
 
               哭沢の女神を祀る  「畝尾坐都多本神社

 しかし、伊邪那美命がこの地で亡くなったという言い伝えがある訳でも無さそうである。
 わざわざ、そんな、悲しい神を祭る理由があるのだろうか。
 それが最初にここを訪れた時の私の正直な感想であった。 
 

 八釣山地蔵尊を訪れる


 その神社の近くに、八釣山地蔵尊がある。 聖徳太子が建てられた寺だそうで、お灸で有名らしい。
 余り観光案内にも載っていない寺であるが、地図を頼りに訪れてみた。
下八釣町の小集落の中にあり、丁度「畝尾坐都多本神社」の裏にあたる。

 神社の前を通る南北の広い道から東へ入る路を少し行くと、「八釣山地蔵尊」の石の道標を見つけた。
 そこを右に折れて下八釣町の集落へ入る路地を行くと、大きな寺の前に出た。

 
                      八釣山地蔵尊を祀る本堂
 小さな集落の中にある寺とは思えない広い敷地と大きな本堂を持つ立派な寺である。
 しかし私には、何か通常の村落にある寺院とは異なる不思議な印象を受けた。
 なぜ、そんな印象を受けたのか? 後で気づいたことであるが、寺には山門や土塀等、寺と集落との間を区切る境界が一切無かったのである。集落と一体となって溶け込む、開放的なつくりが、その原因であった。

 その西面する本堂の前には鬱蒼とした神社の森が見える。
  その神社を訪れ、名前を見て驚いた。


            畝尾坐健土安神社 (うねおにいますたけはにやす神社

      
        集落の中に隠れるようにある 八釣山地蔵尊(C)と 健土安神社(A)

 何と 「健土安神社」(たけはにやす神社)とあるではないか。すぐさま「武埴安彦」を思い出した。
 単に「はにやす神社」なら、この香久山の地は埴土で有名なので、驚かないが、「たけ」が付いているので、地名にちなんだ名称ではない。 明らかに人名・武人の名である。
 「たけはにやす彦」を祀った神社に違いないと直感し、身震いを覚えた。
 宮司も居ない小さな神社だが、拝殿の前に、丁寧な解説板が懸けてあった。
  内容の一部を以下に紹介する。

「 健土安神社
 天香久山北西麓、畝尾都多本神社北隣に鎮座。 祭神は 健土安姫 ・ 天児屋根命。 近世に天照大神社と称したが、 「延喜式」神名帳十市郡の 「畝尾坐健土安神社」 に比定。...
 「日本書紀」神武天皇即位前紀己未年二月二十日の条に 「天皇、前年の秋九月を以て、潜に天香山の埴土を取りて、 八十の平甕を造りて、 躬自ら齋戒して諸神を祭りたまふ。  遂に区宇を安定むること得たまふ。 故、 土を取りし処を号けて、 埴土と白ふ。」 とみえる埴安に鎮座した土霊とされる。...
 なお「日本書紀」神武天皇即位前紀戌午九月条に埴土を取ったと記す 「天香山社」 は、 同じく十市郡の式内社 天香山坐櫛真命神社 のことではなく、 当社をさすとする説がある (大和志料)。 
 神社と天香山の間に 「赤埴山」 という小丘があり、 埴安伝承地の石碑が建つ。
 「磯城郡誌」は 「赤埴山。 香久山の西北に接続し、全山赤色粘土ならば 赤焼土器に適するならん。
 土人これを赤せん山と称し、 香久山の中央西側は白色粘土なるを以て、 土人これを白こと称せり」
 と伝える。』   「大和・紀伊 寺院神社事典より引用」

 とあった。

 祭神埴安姫ではなく「武埴安姫」とあるのは、「彦・姫」制を考えると、夫は「武埴安彦」であるので、逆賊である「武埴安彦」の名を隠すための苦肉の策である。
 明らかに この社は彼を追悼するために建てられた神社に違いない
 そして、この地は「埴安」の地であるので、ここが「武埴安彦」の元々の本拠地であったろう。
  神武(崇神)大和侵攻を予知し、北の山城に軍勢を率いて逃げたと想像する。
 そして、上の解説板の説明から、ここは「大和の物実」である「埴土」を産する「大和の中枢」であったことが読み取れる。
 それは神武の最初の夢のお告げが「天香山の社(やしろ)」の中にある埴土とあるので、天香山の山頂の土でもない。
 麓のここが「古い大和の中枢」なら、 この地に広大な境内を持つ社があったとしても不思議でない。 すぐ近くの「赤埴山」を境内に含んでいたはずである。  まさに「天香山の社の中にある埴土」とは「赤埴山」埴土ではなかったのか。
  
             健土安神社の背後にある  「赤埴山」

 私は農作業から戻ってきた農家の人に尋ねてみた。
 「あの丘が神武天皇が埴土を取りに来たところですか。」 すると即座に
 「その通りです。神武天皇が取りに来たのはあの埴土山の土です。」 誇りと確信に満ちた表情で答えが返ってきた。
 ついでに 「崇神天皇の話に出てくる武埴安彦とあの神社は関係があるのですか。」 と聞いてみた。
 すると少し間を置いて 
 「さあ、私には歴史の難しことは分かりません。」 と頭を下げた。

 この神社が逆賊を祀る神社であると答えるはずはない。 私の質問は浅はかであった。

 しかし、状況証拠が多くを物語る。

 なぜ「健土安神社」のすぐ隣に、哭沢の森があり、哭沢の女神を祀っているのか。
 この地から、逃げた兵士たちは山城の地で皆殺しにあった。
 残された女・子供の悲しみは想像もできない。
 哭沢の女神を祀って、その井戸の処で日夜泣いたであろう。
 しかし、いくら泣いてもその悲しみは消えることがない。何年・何百年経っても。...

 数百年後、その悲しみを救おうと、聖徳太子はこの地に地蔵堂を建てた。
 聖徳太子の居られた「上宮」は同じ天香久山の麓「磐余池」の傍にあり、ここから直ぐの所である。 
 「筋違道の研究」の第7章を参照)   
 当然、太子はこの地の住民の悲しい過去はご存知だったであろう。( 崇神の大和侵攻は、おおよそ、卑弥呼の死後、約半世紀後の、4世紀初め、あるいは中頃だと推定されるので、聖徳太子が活躍する7世紀初頭から、たった2〜3百年程さかのぼっただけの過去の話(=現代の我々にとって江戸時代の話に相当する)であり、人々の記憶に残っていたとしても不思議ではない。)
 太子は仏の力で、地蔵尊の慰めの力で、この地の住民を悲しみから救おうとされたのである。
 大きな地蔵堂は、「健土安神社」の方を向き、集落を包容するかのように建っている。

 
        大きな地蔵堂は「健土安神社」を見守るように建っている。(右が神社の杜)

 そして、太子の願いは、この寺の名に表れている。
 寺の名前は「興福寺」である。
 この地に再び「福(しあわせ)」を呼び戻そうする願いである。

 (奈良の同名の興福寺より、こちらの方が古い。
 多分、光明皇后が奈良に寺を建てるに当たって、聖徳太子の民を思い、民を救おうとする慈悲の精神を受け継ぎたいとの思いから同じ名前を付けたのであろう。)

 そして、私は「武埴安彦」こそ、「長髄彦」であったと思う。
 「ながすね」とは「長洲根」 つまり大和盆地の長い堆積平野の根っこ(深奥の地)にいた人と云う意味の名であったと想像するのである。
 「長髄彦」の兵士たちの多くは、遠方へ逃げたとしても、大将の「長髄彦」は近くに隠れて、反撃の機会を覗っていたであろう。   崇神紀に出てくる少女の歌のように 隙あれば、「大和を取り戻そう」と。
 そう考えるならば、山城に居た「武埴安彦」こそ「長髄彦」その本人であったと思われる

 また、この神社は、拝殿前に掲げられた「大和志料」の解説から分かるように、近世には「天照大神」を勧請して「天照大神宮」と称していたのは、前述した南山城の「湧出宮」と同じ理由からであろうと、想像される。

 すなわち、滅ぼされた「邪馬台国」時代の栄光を追憶する目的で、その初代の女王である「卑弥呼」=「天照大神」を合祀したのであろう。

 

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