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  箸墓古墳と夏至の太陽(古墳の方位・続論)

         −− ゲシノオオダイラの謎を解く −−
 

  箸墓古墳の主は「夏至の祭り」を主宰していた?
     やはり、箸墓古墳は”ヒミコ”の墓か??


はじめに

 以前の私のレポートで、桜井茶臼山古墳、箸墓古墳、行燈山古墳(=伝・崇神天皇陵)の著しい方位相関性について述べたが、それらは古墳軸に直角な向きの相関であった 。今回のレポートでは、その内の箸墓古墳、行燈山古墳の軸方向を調べたところ、再び驚くべき結果が得られたので、報告する。
 その一部は既に以前から指摘されていた事項も含んでいるが、しかしそれらは精密な測定がなされたわけではなく、単なる憶測の域を出ないものであった。   今回行ったGPSと太陽の夏至の日周運動の数値的計算により、箸墓古墳が夏至の日に穴師山から昇る日出方向へ正確に向いていること。穴師山にある「ゲシノオオダイラ」の意味。ならびに箸墓古墳と穴師山大兵主神社との特異的関係が明らかになった。
 また、行燈山古墳についても、古墳軸が黒塚古墳と巻向山に向いていることがわかった。

                箸墓古墳から見た、三輪山、穴師山、巻向山

            箸墓は穴師山に向かう。   走っているのは、JR桜井線。

箸墓古墳の中心軸は正確に穴師大兵主神社の社殿を通る



                                                    国土地理院 地図より
 古墳の方位相関をHPで発表した後、箸墓古墳の向きを自分の目で確かめようと、箸墓古墳が向く穴師山に上り、上から写真を撮ろうと試みたことがあった。
 GPSと小型のPCを持って、中心軸が通る場所を探しながら、手前のみかん山のある尾根に登ってみたが、高度が足りず、古墳の全体を写せない。 さらに尾根の背後の、より高いみかん山に登ってみたものの、箸墓古墳の鬱蒼と茂った木々のため、明瞭な古墳の形と向きが分からず諦めたことがあった。
 そのとき、気づいたことは、中心軸がみかん山ではなく、その眼下にある黒々とした森の中を通ることだった。後で地図を調べるとそれは穴師大兵主神社の森であることが分かった。 しかも、神社の背後の森ではなく、神社そのものに向いているようにみえる。
 今回、再度GPS測定したが、古墳軸は拝殿の後ろにある本殿の中央をを貫くように通っていることが確認できた。

        国土地理院

 3つの神殿からなる本殿の幅が10m近くあるので、GPSの誤差を考慮しても、本殿へ正確に向いていることは確かである。
 古墳軸の向きは前論文の値をそのまま用いたが、算出法は前論文で述べたように、古墳の詳細な測量図をスキャナーで読み込み、図をピクセル値に直したものとGPS計測値を組み合わせて、計測値を補正したもので、 GPS単独より数段精度が高いものである

 箸墓中心軸は穴師山山頂に向いていない。


 大兵主神社に向かうことは、既に研究者により指摘されてきた事柄である。さらに、「その延長線は穴師山山頂を通る」というのが、定説となっている。つまり、箸墓古墳は穴師山に向かって造られたと考えられている。
 穴師山に登り、GPSで調べればよいのだが、現在は難しい。古くから穴師山に登る「テンノウ坂」という道があったのだが、現在は廃道になっており、ブッシュに覆われて、地元の人でも登るのは困難だそうだ。
 しかし、穴師山山頂には4等三角点があり、登らずともその位置は正確にわかる。 そこで、箸墓中心軸線が山頂を通るか、計算したところ、山頂から北西へ約37m離れた点を通ることが判明した。 
(計算方法については、私の別ページ、「GPS考古学のための初等解析幾何学」の(8)式参照。)
 これは、誤差とみなすには大きすぎる。 中心軸は山頂から明確に逸れていると云わざる得ません

基準直線 方位角 調査点P 垂直距離(m)
箸墓古墳中心軸 23.27 穴師山山頂 37.4
箸墓古墳中心軸 23.27 大兵主神社 1.3

          国土地理院

 大兵主神社には正確に向き、定説と違い穴師山からは外れる。このアンバランスの意味するところは何なのだろうか。

  穴師山のふしぎ


 ゲシノオオダイラ

 穴師山には元もと、麓にある下社「大兵主神社」と山の上にあった上社「兵主神社」の2社があり、上社である「兵主神社」が本宮であったが、 応仁の乱の際、隣の竜王山にあった十市山城とともに戦乱に巻き込まれ焼失した。
 また、巻向山山中にあった「若御魂神社」も荒廃していたため、3社をまとめて、穴師山ふもとの現「大兵主神社」に合祀したと云われている。
 本殿の向かって左が「大兵主神」、中央が山上にあった「兵主神」右が「若御魂神」である。


        穴師大兵主神社 大きな拝殿の後ろに3つの社が見えるのが本殿.。

 いつ来ても方向感覚を失うように感じるのは、社が穴師山を背にして建っていない所為だろう。不思議な神社である。
 ところで、上社「兵主神社」のあったところは「ゲシノオオダイラ」とよばれ、小川光三氏の著書「大和の原像」には紹介されてはいるが、穴師山のどの辺りか正確な位置は不明である。

 太古の時代に造成された山?


 穴師山は風光明媚な山で、秋の紅葉シーズンには、色とりどりに紅葉した山容が錦絵の様に見事で、山辺の道でも人気の写真撮影スッポットである。
 私自身、何度も訪れてはいたが山頂付近をじっくり眺めたことがなかった。 しかし、今回、望遠レンズで撮影して、奇妙な形をした山であると気づいた。
 山頂は小さなお腕を伏せたような円形で、それがまるで整地をしたかのような台地状の、正に「オオダイラ」の上に乗っているように見える。単なる自然の山ではなく、明らかに人の手が加わった山であろう


       山頂から少し下ったところにある水平な台地(植生が異なって見える)が上社のあった、「ゲシノオオダイラ」 か? 

 多分、上社である「兵主神社」を建てるため、太古の時代に、元の山の山頂付近を削り、ふもとを見下ろす台地を「造成した」ように思われる。
 望遠レンズで見た様子では、長い年月のためこの台地の北西部が大きく侵食され崩落しているように見える。
 この「ゲシノオオダイラ」は箸墓付近から、遠望すると、さらに北東に延びる尾根と一体になり、水平な面が続く独特な姿を見せる。(下の写真 まるでUFO )

 「弓月が嶽」とは? 「テンノウ坂」とは?



            箸墓から眺めた穴師山。   左に北東に水平な尾根が延びている。

   万葉歌人・柿本人麻呂は巻向にあった妻の家に通い、多くの歌を詠んでいる。

  ”痛足川(あなしがわ) 川浪立ちぬ巻目(まきもく)の 由槻(ゆつき)が嶽に雲居立てるらし。”

  ”あしひきの 山川の瀬の響るなべに 弓月が嶽に雲立ち渡る


 歌にある「弓月が嶽」とは、穴師山か、その南隣の巻向山かと云う論争が今もある。
穴師山は巻向に最も近く、よく見える山であるが、巻向山説の根拠は、歌に詠まれている穴師川は、現在、巻向を流れておらず、巻向より南の箸墓古墳のさらに南を流れているからというものだ。
 だが、私は「弓月が嶽」とは穴師山に乗るドームのような山頂部を指していたのではないか、と考えている。
  そう思う理由は、最初に纏向遺跡を発掘した石野博信氏は講演で、冗談まじりに、こんな話をされていたからです。
 『第1次の発掘調査では、余り成果がなく、古い川跡しか見つからなかった。 しかし、これを知った地元の万葉研究家から ”先生、有難うございました。 歌の川が本当に当地を流れてことが分かり、長年の謎が解けました。” とお礼を言われた。 これぐらいが最初の発掘成果だった。』 と。

 また、古くは古今集の ”まきむくの穴師の山のやま人と、人も見るかに、やまかづら巻け” の歌にあるように、大和盆地と背後のやま人の住む大和高原をむすぶ有名な「テンノウ坂」があった所である。
 テンノウとは、大和高原、山添村・神波多にある「牛頭天王社」(ごずてんのうしゃ)のテンノウを指し、そこへ通じる道であったから、との説があるが、神波多へは余りにも遠すぎる。
 私は、昔「弓月が嶽」山頂にあったとされる、上社「兵主神社」の祭神が土地の人からは「牛頭天王」だと信じられ、崇拝されていたからではなかったか、 また「テンノウ坂」は、それへの参拝道であったのでは?と想像している。  もし、これが正しければ、「弓月が嶽」が穴師山であることの傍証ともなるだろう。

 私が「弓月が嶽」に関心を持つ理由は、その名と、日本書紀に登場する秦氏のリーダー「弓月の君」との関連に興味を覚えるからである。 また、「弓月」という言葉は、遠く「中央アジア・シルクロード」の地を想起させるロマン溢れる言葉である。 これについては、別の機会に、私見を述べるつもりである。

◎ 天理市街から望遠カメラで撮った穴師山
 上の写真のように穴師山を正面(西方から)から眺めると、「ゲシノオオダイラ」の大きさがよく分からない。
下の写真は桜井市の北方にある天理市街から望遠カメラで撮影したものである。北東に伸びる尾根と西に広がる「ゲシノオオダイラ」が写っている。地形図から想像されるより、広く水平な台地に見える。(手前の山の尾根が重なって見えているだけかも知れない。)



 夏至の太陽の天文計算を行う


 さて、その「ゲシノオオダイラ」とは「夏至の大平」だろうと思われる。その名から想像されるのは夏至の日にそこから太陽が昇ることから名付けられたと考えるのが自然です。
 はたして、箸墓古墳から見て、夏至の日に太陽はどこから昇るのだろうか。理科年表で調べても、夏至の日の出の方位は、穴師山から北へ約7度程大きくずれた位置になる。
 しかしそれは、水平線上から太陽が頭を出す位置であり、巻向のように東側に山並みが連なる場所での、山際から太陽が昇る位置ではない。

            

 その位置は書物にも載っていないし、またそれを求める単純な計算式もない。そこで、いつものように私流に、1から天文計算を行ってみることにした。

箸墓古墳の中心軸は正確に夏至の日の出の位置を向いていた。


 計算結果をまとめたもの以下に示します。
実は、最初、夏至の日の太陽の日周運動の位置を計算したのだが、理科年表の値と異なる。よく考えてみると大気中での太陽光の屈折を考慮していなかったことに気付いた。
               図A

 図のように、光は屈折率の大きな方へ屈折する。大気の屈折率は真空より大きい、そのため、日の出の太陽は実際の位置より「浮き上がって」見えるのである。これが「大気差」と呼ばれる角度で、決して無視できる量ではない。 これを考慮して、夏至の太陽の視高度と方位の位置を計算したのが下の表とグラフです。
   計算の詳細な解説は、このページの最後に載せたのでご覧ください。
   
視仰角 太陽方位角
029.33
0.528.86
128.41
1.527.98
227.56
2.527.16
326.76
3.526.37
425.98
4.525.60
525.23
5.524.85
624.48
6.524.12
723.75
7.523.39
823.03
8.522.68
922.32
9.521.96
1021.61
10.521.26
1120.90

    太陽方位角は、真東を基準にして、北回りを正に取った角度






     

 箸墓の先端から穴師山の距離は約2430m、箸墓と穴師山の高度差を(樹木の高さを考慮して)340mとすると、穴師山山頂への仰角は約7.9度tなり、「オオダイラ」への仰角は約7.3度となります。 また、箸墓古墳から見た穴師山山頂への方位は22.4度、古墳の中心軸の方位は真東から23.3度です。
 表から穴師山山頂を太陽が通過するとき(方位22.4度のときには太陽仰角が8度を上回り、山頂の仰角を越えているので)既に太陽は昇りきった後であることが分かります。
  さて、どの場所から太陽が昇るのでしょうか。
上のグラフを、箸墓から眺めた穴師山の写真と重ねたものが、下の図です。



 太陽は山頂から少し北へ離れた位置から昇ることが分かりますが、その位置は箸墓古墳の中心軸の向きと見事に一致します。

 計算が正しいとすると、箸墓古墳は夏至の日の出の位置に向けて造られたと考えられます。

  箸墓の被葬者は「夏至の祭祀」の主宰者であった。
    箸墓の被葬者はやはり「卑弥呼」か。



これは箸墓古墳の後円の先端部を基準にした計算です。 もし別の位置、たとえば後円部の頂上で計算すると、 その高さは数10mあるので、そこから眺めると日の出の位置は、中心軸からずれることになります。
 ですから古墳の造築後に古墳の上で夏至の祭祀を行うように設計されたものではないと考えられます。
 つまり、箸墓古墳の主が生前に行っていた夏至の儀式(夏至の祭祀)を考慮して、古墳の方位が決められたと考えるのが自然です。死後も
 つまり、古墳の被葬者「ヤマトトトビモモソヒメミコ」(あるいは「ヒミコ」?)は、 「夏至の祭り」を主宰していたと考えられます

まさに ヒミコ=日の巫女 (オオヒルメノムチ)=天照大神の別名

に、ぴったり、ではないだろうか。  この大胆な推理の詳細は稿を改めて述べる予定です。

 これに関連するかどうか分かりませんが、古墳から北東に約1km離れた巻野内・坂田地区の発掘調査で鶏の埴輪が見つかっているのが興味を引きます。

 桜井市「巻向遺跡発掘調査報告書」第28集より

行燈山古墳の軸線について


 次に、行燈山古墳通説では崇神天皇陵とよばれているが、後述するように、そうではない。)の軸線について調べたのが下の表です。

基準直線 方位角 調査点P 垂直距離(m)
行燈山中心軸 -27.15 巻向山15.2
行燈山中心軸 -27.15 黒塚墳頂1.2
行燈山中心軸 -27.15 穴師山山頂169.5




 よく行燈山古墳は同じく穴師山を向いているように言われますが。 データからは、遠い巻向山山頂に向いていることが分かります。 距離にして約3.7kmも離れているにも係わらず15m程度のずれしかありません。 誤差の範囲内だろうと思います。
 しかし、古墳からは、途中にある穴師山の尾根に隠れて見えません。約2km以上後退した場所からしか見えないのです。
 上述の大兵主神社に合祀されている「若御魂神」が元々巻向山山中にあったことを考えると、大兵主神社を接点に、行燈山古墳と箸墓古墳が結びつく様に思われる。前の私の論文で、行燈山古墳(天皇陵ではないと想像される)は、箸墓古墳と密接な相関が分かっているが、 さらにその関連性を補強する材料になるだろう。
 なお、行燈山古墳が「冬至の日出」の方角に向いていると云う説があるが、正しくはない。(地平線から昇る位置は 約1度 南であり、山際から昇るのは、さらに南にずれる。)

 軸線は黒塚古墳の墳頂を通る



     
               黒塚古墳 GPS測定図 ( by Watson )


 さらに、古墳の西北西に約1km弱離れた黒塚古墳の後円部の墳頂を通ります。黒塚古墳は大量の「三角縁神獣鏡」が見つかったことで有名な古墳です。
 その古墳の向きは東西方向ですが、石室のある後円部の墳頂を丁度通るのです。
 このことは、この古墳は行燈山古墳と密接な関係があることを示しています。
 黒塚古墳の石室内で発見された遺物の中に鉄製の「謎のU字型金具」がありますが、これと、上述の箸墓に近い巻野内・坂田地区で見つかった埴輪の中の「帽子状のかぶり物」と関係があるように思えるのです。

 
黒塚古墳のU字型鉄製品(X線写真)    巻野内・坂田地区の帽子状埴輪(桜井市同上資料より)
  (橿原考古学研究所)

これらは、箸墓古墳と行燈山古墳、さらに黒塚古墳が密接に関係していることを暗示する

 行燈山古墳は崇神天皇陵ではない。


 私の以前のレポートで、地元の言い伝えでは、初代の大王ハツクニシラススメラミコト(崇神天皇)の御陵は行燈山古墳ではなく、南隣にある最も巨大な渋谷向山古墳(宮内庁は景行天皇陵に比定)であると云われていると述べた。 この言い伝えの証拠写真とも云えるものが、ネット上(http://inoues.net/club/kuroduka_museum.html )にあったので紹介する。
 行燈山古墳のすぐ近くには、大量の三角縁神獣鏡が見つかった有名な黒塚古墳があるが、その傍に発掘品や発掘当時の石室の模型を展示する「黒塚古墳展示館」が建てられている。展示館の一階には、写真パネルとともに、 柳本古墳群の大きな航空写真が足下のガラスの床に、はめ込まれていて、古墳群の全容が見てとれる。それを写したネットの写真を見て驚いた。

           国土地理院地図(左が北)

          ネット上の写真

 なんと、Bの渋谷向山古墳を「崇神天皇陵」と標されているではないか。 そしてAの行燈山古墳は「景行天皇陵」となっている。
 早速、展示館に確かめに行ったが、すでにAは「行燈山古墳」、Bは「渋谷向山古墳」と考古学上の名称に書き換えられていた。
 展示館の係の方にお尋ねすると、最初は通説通りAを「崇神天皇陵」、Bを「景行天皇陵」と標していたのだが、地元の方から、「それは間違っているので直しなさい。」と、お叱りを受けて、ネットの写真のように変えたそうである。 しかしそれでは、通説と異なるので、無難な学術名称に改めたそうである。
 黒塚古墳には明治の始めまで、柳本藩の陣屋が置かれ、この辺りは旧家が多い。その旧家には、古くからの言い伝えがしっかり残っていると思われ、明治以降の古墳の比定を疑問視されているようである。
(また、江戸末期には、行燈山古墳の改修工事が藩の手によってなされ、現在見られる堂々とした美しい姿になった。) 

 これは、どうでもよい事と思われるかも知れないが、GPSで古墳の方位の相関を見つけた私にとっては無視できないことである。
 つまり、相関のある「桜井茶臼山古墳」「箸墓古墳」そして「行燈山古墳」はいずれも、天皇陵ではなく、それ以前の王朝の王または女王の墓と睨んでいるからである。


夏至の日の出の位置(山際)の計算の詳細


 以下に自己流で行った計算方法を紹介する。

天球座標と直交座標



 天球座標は、天の北極天の赤道を基準に 赤緯θ y 軸から西回りに計った赤経φで表すことにする。

          図 1

直交座標は、図11のように、O点から天の北極へ z 軸、 真東に地平線方向に y 軸を、それらと直交する向きにx軸をとる。 天球の半径を1、つまり天球は単位球と仮定する。 またこの直交座標は天球に固定されているとする。
  直交座標と、天球座標の関係は
                  
である。(図2)
              図 2

   太陽は天の赤道と 黄道傾斜角 θ0 = 23°26'21.448" = 23.4392911°   (西暦2000年平均値)
傾いた黄道上をゆっくりと1年かかって1周する。
 夏至の日には太陽は最も天の北極に近い黄道上の位置に来る。つまり、太陽の赤緯θ0 になる。

夏至の日の太陽の動き



 夏至の日の太陽の動きは赤緯 θ=θ0 一定となる小円上を一周する
ここでは計算の都合で天球および天球座標は固定されているとして、 上述の小円上を太陽は東から西向きに移動すると考える。(図3)

        図 3

つまり、この日の太陽の動きは、上述の (1)式で、θ=θ0 固定で、φ のみの 1パラメータ の式として表すことが出来る
                 
  夏至の日の太陽は地平線からではなく、山際から昇るので、観測者の位置0点から見た山際の仰角の tan を  h  とする。
 この地平面からの高さ  h  の平面と、夏至の太陽の動く赤緯 θ=θ0  の小円と交わる点が、夏至の日の出の位置である。
 計算でこの位置を求めて、その方向ベクトルを地面へ斜影して出来るベクトルと、真東である y 軸の成す角度が日の出の方位である。

 ◎ 地平面からの高さ h の平面の式
 直交座標  x, y, z  は固定だから、観測者の居る緯度をδとして、天頂を向く単位ベクトルは、図4より
 図4   
 高さhの平面上の点Rの位置ベクトルをと置くと、
と単位ベクトルの内積が、h となる。
                          
 つまり、成分では、
                       
  これが、高さ h の平面の式である。

 

山際に昇る太陽の位置



 これと、太陽の日周運動の式 (3) と組み合わせると、 rx = x, ry = y, rz = z だから、上式は
                  
  これから、
                  
が得られる。 これが日出位置のφを与える。
この φ を φ0 と置き、 このときの位置ベクトルを  と置くと、

 地平面への斜影ベクトルは
              
このベクトルの長さ L は、
            
 α は、真東から測った方位角とすると、
                        
ゆえに、
                        
ここで、 h  は、半径1の天球における地平面の高さだから
                 
である。
これらを使い、日の出の方位を計算する。

 つまり、(10)式と

         

    を上から順に計算して(重要)
                        
を求める。


上記の計算手段について

 
   a) 関数電卓を使って計算する方法もあるが、大変である。

   b) 表計算ソフトを使う。
     セル式の参照順を間違わないようにしなければならない。
     例えば上に並べた式の順に参照して行けばよい

   c) プログラム変数が使える簡単なプログラム言語を使う。  
     たとえば、シャープのポケコンのBASIC等

大気差


 光は屈折率(光の速さに逆比例)の異なる媒質間で屈折率の大きい方へ曲がる。地球大気は、下層ほど密度が大きく、屈折率も大きい。
 そのため、前掲の図A のように地平線近くからやってきた太陽光線は大きく曲げられ、地上の観測者には太陽が実際の位置より”浮き上がって”見える。
 この浮き上がる角度を「大気差」と呼ぶ。 この標準値は「理科年表」に載っているので、利用した。
これを考慮した計算結果を以下に示す。
 理科年表の日出の方位(高度0)もこの大気差を考慮しているので、私の計算結果と一致する。

 計算結果


 ここで、視仰角は、大気差を考慮して肉眼で見た場合の仰角(度)、 真仰角は大気差がない場合の真の太陽位置への仰角方位真東を基準にした方位角(北へ正)
 ここで、緯度 δ = 34.5395、黄道傾斜角 θ = 23.4393 を使った。
途中の計算列を一部省いている。
  
視仰角大気差真仰角sinφcosφY/L太陽方位角
0 0.573 -0.573 -0.3117 0.9502 -0.2859 0.8718 0.8718 29.33
0.5 0.478 0.023 -0.2979 0.9546 -0.2733 0.8758 0.8758 28.86
1 0.405 0.595 -0.2847 0.9586 -0.2612 0.8795 0.8796 28.41
1.5 0.348 1.152 -0.2718 0.9624 -0.2494 0.8829 0.8831 27.98
2 0.304 1.696 -0.2592 0.9658 -0.2378 0.8861 0.8865 27.56
2.5 0.268 2.232 -0.2468 0.9691 -0.2265 0.8891 0.8898 27.16
3 0.239 2.761 -0.2346 0.9721 -0.2152 0.8919 0.8929 26.76
3.5 0.215 3.285 -0.2225 0.9749 -0.2041 0.8945 0.896 26.37
4 0.195 3.805 -0.2104 0.9776 -0.193 0.8969 0.8989 25.98
4.5 0.178 4.322 -0.1984 0.9801 -0.182 0.8992 0.9018 25.60
5 0.164 4.836 -0.1865 0.9825 -0.1711 0.9014 0.9046 25.23
5.5 0.151 5.349 -0.1745 0.9847 -0.1601 0.9034 0.9074 24.85
6 0.14 5.86 -0.1626 0.9867 -0.1492 0.9053 0.9101 24.48
6.5 0.131 6.369 -0.1507 0.9886 -0.1383 0.907 0.9127 24.12
7 0.123 6.877 -0.1388 0.9903 -0.1274 0.9086 0.9153 23.75
7.5 0.115 7.385 -0.1269 0.9919 -0.1164 0.9101 0.9178 23.39
8 0.109 7.891 -0.115 0.9934 -0.1055 0.9114 0.9203 23.03
8.5 0.103 8.397 -0.1031 0.9947 -0.0946 0.9126 0.9227 22.68
9 0.098 8.903 -0.0912 0.9958 -0.0836 0.9137 0.9251 22.32
9.5 0.093 9.408 -0.0792 0.9969 -0.0727 0.9146 0.9274 21.96
10 0.088 9.912 -0.0672 0.9977 -0.0617 0.9154 0.9297 21.61
10.5 0.084 10.416 -0.0552 0.9985 -0.0506 0.9161 0.932 21.26
11 0.081 10.919 -0.0431 0.9991 -0.0396 0.9166 0.9342 20.90

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GPS考古学


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