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GPS考古学序論




筋違道の謎を解く


第0章 序論

第1章 筋違道入門

 若草伽藍の礎石の話   

第2章 筋違道のなぞ

   

第3章 GPSデータの解析

   

第4章 安堵町以北の解明

   

第5章 安堵道と三宅道の接続の解明

第6章 多以南の道の解明

   

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第7章 上宮への道(磐余道)

別稿 数奇な運命の一本木と駒繋ぎの石   

別稿 四国に渡った駒繋ぎの石

第8章 斑鳩宮への道


太子道(筋違道・すじかいみち・日本最古の官道)の謎を解く−−−筋違道の研究



     序論

 私の住む奈良県では、ほとんどの道路は古代条里制のなごりで、正確に東西南北に走り、大和盆地を碁盤の目のように刻んでいます。 しかしその中で盆地を斜向する道路もわずか存在し、それらの多くは、条里制施行以前の古い道である場合が多い。 この斜向道の代表的なものが太子道(筋違道)です。この名は建物の「すじかい」のように斜めに横切るところから由来していますが、固有名詞として使われています。
 法隆寺のある斑鳩から盆地の南端である飛鳥まで、ほぼ盆地の2/3を斜めに横切る、直線距離にして約20数kmの大規模な古代道です。 しかしながら、その痕跡は安堵町の約1kmと三宅町から田原本町宮古にいたる約3kmほどの直線道路で、あとは僅かに痕跡らしきものが田原本町多(おお)まで 点々と存在するのみです。

 
                       赤 線 は 筋 違 道 の 痕 跡

今も生きる太子道

 中でも三宅町を通る太子道は「聖徳太子様が日々通われた道」として町の誇りでもあって、現在でも地域のメインの生活道路として使われています。 奈良県人に「太子道とは?」と聞けば「ああ三宅町を通る道のことですね。」との答えが返ってくるほどです。  この道は屏風、伴堂、黒田、宮古と続きますが、しかしそこで途絶え、僅かな痕跡が田原本町多まで点々とあるだけで、それから先、飛鳥までは諸説があるものの、証拠らしきものもなく、皆目分からない状態です。



 毎年11月22日には太子の遺徳をしのんで、太子像を担ぎ法隆寺の僧侶をはじめ一般の人が参加して法隆寺から飛鳥の橘寺まで歩く、 「太子道をたずねる集い」が行われています。 (痕跡をたどれないため、不明な個所は現在ある道を選んで歩いておられます。)

 太子像を先頭に油掛け地蔵尊近くを歩く「太子道をたずねる集い」参加の皆さん。後方の木立の傍のお堂が油掛け地蔵。(H23/11/22)


 

GPSで太子道を調べる

 私はたまたま家からそう遠くない場所にその痕跡があるのを知り、興味を覚えたのがきっかけです。その後図書館で見つけた岡本精一氏の著された「太子道を往く」を読み、 その詳細な太子道周辺の郷土史的な調査、ロマンに満ちた解説と著者の聖徳太子への熱い思いに心うたれました。 そこで自分の手でも、消えた太子道を探ってやろうと思い立ちました。

使ったハンディGPSのGARMIN社製eTrexは緯度経度が最良条件で0.1秒(約3m)の精度で測定できる。

 先人の太子道探究は、文献や伝承が頼りでしたが、私のような理系の人間から見れば、これまでの太子道探究はある意味、 古代のロマンを追う史跡めぐりの案内のようなところが多分にあり、道そのもののもっと精密な実地調査が必要なように感じていました。
 事実、包括的な全域に亘る太子道(筋違道)の科学的な調査は殆ど行われていません。
 私にはGPSという新たな道具があります。GPSは太子道のような直線の道を調べるには最適の道具だ、調べればきっと新たな発見があるに違いないと考えたわけです。  

太子道のなぞ

  消えた太子道については後に詳しく述べるように、不明な点がいくつもあります。たとえば、
  • 安堵道と三宅道の延長線は互いに交わらず横にずれているが、2つの道はどう接続していたのか、どこで大和川を渡ったのか。
  • 安堵道は北へ高安まで延びていたと考えられているが、その先はどうなっていたのか。
  • 延長しても法隆寺のそばにあった斑鳩の宮へは行かない。太子は斑鳩の宮へはどう通われていたのか。
  • 田原本町の多(おお)から南へはどう道が延びていたのだろうか。
     太子は推古天皇の宮であった小治田(おはりだ)の宮から斑鳩まで馬に乗り、日々通われたと伝えられている。飛鳥川の西岸にこの小治田宮の伝承地がある。 しかし近年奈良時代の小治田宮跡が飛鳥川東岸にある雷丘(いかずちのおか)の東麓に発見され、推古天皇の小治田宮もその辺りにあったと考えるのが定説となった。
  • しかし多から南に素直に延長した線は、推古天皇が元住まわれていた飛鳥川西岸の豊浦から西方に外れた山際に到達してしまう。推定小治田宮からは更に大きく外れてしまいます。 それ故、多から南の道は不明だと言わざるを得ません。一見して分かるような斜向道は殆ど残っていないのです。
 以上のように、太子道には不明な点が数多くあります。 「道が消滅してしまったのだから、発掘でもして道の痕跡が発見されない限りどうしようもない。」と考えるのが従来の常識かも知れません。
 しかし私は決してそうは思いません。今まで、精密な測定を伴った筋違道の研究が行われていなかっただけにすぎないと考えます。
 私はここ2年ほど何十回(あるいは百回以上?)ともなく各地に足を運び、GPS測定を行ってきました。また各地でその地の古老を訪ね、貴重な昔の話も伺いました。 図書館で文献も調べました。  

太子道の全容が明らかに

 その結果、幸運にも、筋違道のほぼ全容を掴むことが出来たと思っています。
 筋違道は従来考えられて来たような単なる太子の通勤路を超えた別の目的を持った、 壮大な古代の計画大道日本最古の官道)であったことが分かって来ました。
 決して、古い斜向条里や村落間の自然発生的な道を利用して作った道ではなく、驚くほど精緻に設計された直線の大道だったのです。
 その謎解きは私を興奮させるものでした。まるで推理小説を読んでいるような展開に驚くこともしばしばでした。
 北の端から南の端まで、全容を確信をもって解明できたのは、まずGPSのおかげです。このGPSがなければ謎の1つも解くことは出来なかったでしょう。
 それに加えて、これらの謎を解く鍵や痕跡が現代まで残されてきたことは奇跡的で、大和の地の奥深さと、妙に思われるかもしれませんが、聖徳太子の不思議な力を意識いたしました。
 この拙文を書き始めるに当たり、太子が眠る磯長の御廟に参拝し、感謝の御報告をして参りました。
 
 話は細部に亘り、少々込み入っていますが、その雰囲気をこの拙文で伝えられたらと思います。
 第3章以降で対話を多用したのはその為です。 興味を惹くよう書いた部分もありますが、単に面白半分ではありません。私の試行錯誤や発想の過程、そして発見の驚きを伝える最適の方法であると考えたからです。
 たぶん謎解きを楽しんでいただけると思います。

太子町叡福寺にある磯長の太子廟 奥の森に太子、膳部夫人、 母后間人皇后の眠る御廟がある。

      太子町のマンホール

 
 

本稿の構成

 第1章は太子道(筋違道)をご存じない方への案内です。良くご存じの方は適宜読み飛ばしてください。
  若草伽藍の礎石の逸話も紹介しています。
 第2章では筋違道の謎、まだ分からないことを列挙しました。
  中窪田の史料と2つの杵築神社の関連についても紹介しています。
 第3章では現在、比較的に保存状態のよい部分の筋違道についてのGPS計測結果とその数量的分析を行います。
 第4章では安堵町以北の筋違道の謎解きをします。
 第5章では安堵道と三宅道がどう繋がっていたのかを解明します。
 第6章では田原本町多以南の太子道の謎解きをします。
 第7章は太子の故郷・上宮へ道を探ります。

 

 結論を手っ取り早く知りたい人のために


 この筋違道は断片的にしか分かっていません。ですから、この研究は筋違道の全容を初めて明らかにするものです。 是非、第1章から最終章まで順に読んでいただきたいのですが、道の全容を早く、知りたい方のために、 結果の全体図を以下に示します。
 この筋違道だけではなく、古代の道は川や丘を無視するように、直線的に延びていることは、 多くの道の発掘調査で既に明らかになっています。
 なお、以下の図が正しいか、権威ある文献等に当たって確認しようとしても、残念ながらそれらは未だ存在しないことが分かるだけでしょう。
 しかし、将来、私の推測する道が通る場所が発掘調査されるなら、必ず道の跡あるいは道の側溝跡が見つかるでしょう。 
 特に、私の推定では、筋違道は藤原京の中央部を斜めに横切っているので、その部分の発掘調査がなされれば、道跡が確認されるものと考えています。
 (私が調べましたところでは、現在奈良文化財研究所による藤原京のその部分の調査は残念ながら、見事なほど、すべて調査空白域となっております。 今後の発掘調査に期待したいと思います。)
 それ故、現在のところ、正しいか否かは、私の各章の本文を読まれた上、直接現地を訪れるか、あるいは、ネット上にある航空写真を見られて、判断していただくしかありません。(もちろん私自身は、この結論には100%の自信を持っています。)
 しかしながら、その謎解きの経緯は大変面白いので、長いですが是非、私と共に、以下の謎解きの旅に参加していただきたいと思います。
( 観光案内的な内容を知りたい方は、まず第1章の「筋違道入門」をお読みください。 )

     

    また、細部の地図は第7章の末尾に掲載しています。
   詳細は、各章をお読みください。

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