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GPS考古学序論




筋違道の謎を解く


第0章 序論

第1章 筋違道入門

 若草伽藍の礎石の話
   

第2章 筋違道のなぞ

   

第3章 GPSデータの解析

   

第4章 安堵町以北の解明

   

第5章 安堵道と三宅道の接続の解明

   

第6章 多以南の道の解明

   

第7章 上宮への道(磐余道)

四国へ渡った駒繋ぎの石

第8章 斑鳩宮への道


太子道(筋違道・すじかいみち)の謎を解く−−−筋違道の研究


 

 別稿 数奇な運命の一本木と駒つなぎの石

◎  石を探す

 私が聖徳太子の”駒つなぎの石”を見かけたのは、10年ほど前だった。八木から桜井まで伊勢街道を探訪していて、民家の横に大きな石が置いてあるのに気がついた。
 小さな説明板に”聖徳太子の駒つなぎの石”とあった。 妙なところに聖徳太子の石があるものだと思ったが、当時余り気に留めなかった。
 しかし、筋違道を調べ始める様になり、もう一度、石を確認しようと伊勢街道を何度も往復して探したが、全く見つからなかった。
 記憶にある辺りで聞くと、確かに数年前までそこの家の横に置かれていたが、家の方が処分されたとのこと。   

   元 石の置いてあったお宅 

  

   このように置かれていた  


◎   夢のお告げ

 そこで、そのお宅で話を伺った。すでに亡くなられたお婆さんが別の所にあった駒つなぎの石を持って来られたそうで、その経緯を話して頂いた。
 そのお婆さんはいわゆる”霊能者”で、ある時「倒れていた一本木をそのまま朽ち果てせてさせてはならない。その木で不動尊像を作りなさい。」との夢のお告げがあり、お告げの通り、像を造り、自宅の2階に祀っておられた。
 しかし再び夢で「一本木と駒つなぎの石は一体のものである。切り離してはならぬ。」とのお告げがあり、家のそば、二階の真下に石をもって来られたそうです。
 信者を集め、真言宗寺院を名のっておられたが、平成に入り、そのお婆さんも亡くなられ、不動尊も駒つなぎの石も祀る人も無く、途方にくれておられた。
 ようやく知り合いの御所に住む行者さんの伝で四国八十八ヶ所の第六番札所・安楽寺を紹介していただいて、そこに石と不動尊像をお納さめすることが出来たとのことでした。
 遠方でもあるし、聖徳太子ゆかりの寺でもなさそうだし、あまりの展開に私も驚いた。

◎ 一本木と駒繋ぎの石の由来

 亡くなったお婆さんが残された文書を見せて頂いた。
その中には、枯れた一本木とそれから不動尊を作られた由来が書かれていた。
 昔の一本木周辺の様子や古塚の言い伝えが書かれていて、興味深い。

       

     駒繋石・不動尊 の由来 (三山堂 文書より)
 大和三山は古来日本歴史を学ぶ者の熟知する所でその一つである耳成山には第三十三代女帝推古天皇の耳梨(耳成)行宮がありました。  摂政宮であらせられた聡明叡知神徳高き聖徳太子はこの行宮(仮宮)に行啓になり、又斑鳩宮(法隆寺)へ御通ひの道すがらこの地石原田古墓塚の一本楠の神木の下で御休憩あそばされました。  この巨石は駒つなぎの石と申し、太子の御乗馬をつながれたものと伝えられています。  當山まつられる不動尊はかの一本楠の神木をもって謹刻せられた尊像でありまして、飛鳥文化の中に光り輝き、永久に福徳円満息災延命を守らせ賜うとの御本誓であります。
(あびらうんけん
   一本木縁起
 石原田には古来古墓塚と呼ばれるところがありました。  一本の大きい楠の神木ある小丘で、伊勢と奈良とを結ぶ表参道の要衝であり、信仰の行事なども行われていました。  ここは古戦場の跡とも聞いています。  摂政宮聖徳太子が戦わせられた処で、蘇我馬子等も参加していたと言います。  時には、仏心篤き芹姫あり、太子のおんため深く仏を念じ給うたと伝えられます。  その頃この付近は人家もなく、茶畑と竹藪がつづき、狐狸の住家でありました。  遠い昔の行宮や寺など今は残っていませんが、近在の地名には飛鳥時代を物語るものがあり、長い歴史の足跡に都忘れの花が咲いています。  里人の話によると五十余年前のこと、大風雨の際黒い雲が降りると、楠の神木から大きい竜が天に昇る姿が見えたそうであります。  その後大干魃が続き、この神木が枯れかかりました。  これを見た宮川の餅屋の老婆は朝夕熱心に水をやり、漸くよみがえらせることが出来たと申しています。  太子時代このかた信仰参詣の道標として長く万人に親しまれて来た楠の神木が世の移り変わりと共に忘れられて掘り起こされ枯れ木としてくちて仕舞ふのを残念に思ってゐました処、或る日霊夢によって「一本木楠の神木もって不動明王尊像として現世に現はせ」と御神示が有りました故種々考慮の末小納浅学その任にあらずと深く御辞退申し上げましたが又々御神告がありましたので清浄洗心誠の道標として歴史を残し皆様と共に法悦に生きていたく存じまして、東奔西走有縁の人を募り念願成就いたしました。  太子と駒つなぎ石のゆかりある此の地千三百幾十年昔を偲びて今もなお人々の心に秘めて永久に尽きない事でせう。  仰げば尊き一本木不動尊の御宝前に朝夕歩みをはこびて皆様の御家運繁栄昌息災延命の勝益々得賜ります様に   
  合掌   
  昭和三十五年 吉日
  橿原市石原田一本木
  眞言宗  三山堂
  當主  川本恵弘


  
上の文書では、一本木はとなっているが、以下の文書では、榎(エノキ)となっている。
また、塚と木の位置関係が分かる。

 「耳成村・大福村・香具山風俗誌調査書」には
 ”一本木 大字石原田に属するも、その地の中央に十坪余りの古塚らしきものありて、その西南隅に一本の巨木なる榎の木あり、故にその木が目標となりて一本木と称せらるるなり、榎、小塚の由来は遺憾ながら不詳なり。”
 と誌す。  この小塚に聖徳太子の駒つなぎの石があり、現在は西方100メートルの地に移された。
        (横大路ー奈良県「歴史の道」調査報告書 昭和58年奈良県教育委員会より)
とある。
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