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GPS考古学序論




筋違道の謎を解く


第0章 序論

第1章 筋違道入門

 若草伽藍の礎石の話   

第2章 筋違道のなぞ

   

第3章 GPSデータの解析

   

第4章 安堵町以北の解明

   

第5章 安堵道と三宅道の接続の解明

   

第6章 多以南の道の解明




New!   

第7章 上宮への道(磐余道)

   

第8章 斑鳩宮への道


太子道(筋違道・すじかいみち・日本最古の官道)の謎を解く−−−筋違道の研究



 第6章  多以南の太子道の解明


 いよいよ、残された田原本町多から飛鳥小治田までの道を探ることにします。
 この道の解明が、最も難しいかも知れません。なぜなら、以前の章と比べると、殆ど道の痕跡らしいものが残っていないからです。
 多分、後の時代にこの盆地南部に広大な藤原京が造営されたときに、斜向道が殆ど破壊されたものと思われます。(しかし、のち程この考えも一部修正すべきことが分かってきます。)

 先ず、この謎を解明するためのいくつかの鍵を列挙してみることにします。

1.斜向道の痕跡

 (a) 新堂神社。左の玉垣と横の道が斜向している。(南より撮影)


 田原本町多の南に広がる水田の南に橿原市西新堂の集落がありますが、

  (a) その集落の北にある新堂神社の西横の道がわずか斜向していて、その神社の石の玉垣も、斜向している。

  (b) その集落の中の道の一部に斜向部分がある。

  (c) 西新堂とその南にある新口(にのくち)とを結ぶ田圃中の道の一部が斜向している。

       

 それから先の集落、新口(にのくち)は、民家が密集してるが、特に目立つ斜向道がない。
 その先、太子道の延長は近鉄橿原線と、南北に走る下つ道および米川を斜めに横切ったと想像されるが、さらに先は元水田地に開発された住宅地が広がり、追跡は困難です。

       

 下つ道が太子道であるという説があるが、そうだとすれば探究はすでにほぼ終わったと云えます。
 しかしその説は正しくないと思います。 なぜなら、太子の残された建物の遺構は殆ど斜向しており、太子の都市造りの基本設計は斜向道を基軸とするものであったと想像されるので、正南北方向の下つ道とは整合性がないからです。
 そこで、もう少し先を調べた結果、以下の痕跡らしいものを見つけました。

       

 (d) 新賀町の市杵島神社の西側の玉垣が明らかに斜向している。(南より撮影)


  (d) 橿原市新賀町にある市杵島神社の西側の道が斜向している。またその玉垣の列も斜向している。

  (e) その先の米川に架かる橋までの間、集落内の道は元もと斜向道であったように見える。

 その橋から先はまた新興住宅地が広がり、追跡が困難です。その先は木原町の南北の都市計画道路を渡り、伊勢街道を横切りますが、どこにも痕跡らしいものはありません。

  (f) その先、橿原市醍醐町の国道165号線の北側、天理教会の西側の道が10m程斜向している。

  (g) 国道を横切りさらに南の醍醐町の環壕集落には西側の溝に沿った道路の一部が斜向している。

ことが分かります。

 (f) 国道165号沿いの天理教会横の道が一部斜向している。(南より撮影)

 (g) 環濠集落である醍醐町の西の環濠に沿う道の一部が斜向している。その先の道は南向きで藤原宮跡へ続く。(北より撮影)



 その先は藤原京の内裏跡となり、まったく手がかりはありません。

2.混乱させる痕跡群

 以上の痕跡は私を混乱させるものでした。
   先ず、(a)の神社横の斜向角は小さく、北への延長は、多の太子道から大きく東へ外れます。
   それに対して(b)の斜向角はかなり大きく、三宅道の斜向角より大きい。 またその延長は(c)を通らない。
   (a)、(b)を結んだ線も(c)を通らない。

   南の(d)、(f)、(g)も1直線上に乗らない。
   (d)、(f)、(g)等を延長しても多から大きく東へはずれてしまう。
  ・・ 等々です。

 どうも、多までの三宅道と、多から南の太子道は向きが異なるようです。何か理由があるのでは。 このとき目に入ったのは、多周辺の発掘調査報告書にあった条里の小字名の載った地図です。
 多の南の田の小字に 「垣内」 「大上院」 「寺垣内」 の名があります。

      橿原考古学研・多・第9次調査報告書より

 多の古老に伺っても、「さあ、昔何かがあって、それに関係した名でしょうな。」と言うだけです。
 特に「大上院」が気になります。 太子が、道を建設するにあたり、何か仮宮風のものを建てられたように思われます。

3.太子井戸を知る。

 まったく五里霧中の状態に、転機が訪れます。 多の古老との立ち話のなかで、「新口に村井という古くからの家があって、そこに聖徳太子が水を飲まれたという井戸がある。」と伺いました。
 おなじ話が岡本精一氏の本にも載っていたのですが、その井戸がどこにあるは不明でした。
 早速、新口の善福寺を訪ねて、ご住職に井戸のことをお尋ねした。
 まだ若い住職さんで、太子の井戸のことは初耳とのこと。 村井さんというお宅にあるそうですと云うと、「ああそうですか、近くなので早速行ってみましょう。」と寺装束のまま、そのお宅を2人で訪問いたしました。
 80を越えられた村井さんはまだまだお元気で、家の隣にある砂利をひいた広い駐車場の一角にある井戸に案内された。
 「ここで聖徳太子さまがご休憩なされ、この水を飲まれて、”ああ口の中が新しゅうなったようだ”と言われそうで、これが村の名前「新口」の由来になったと聞いております。 この話を先祖から代々言い伝えております。」とのこと。
 その他興味深いお話を伺いました。

車の横にある黒タイヤを載せた井戸が太子井戸である。(南より撮影)



 この村井さんのお宅は、驚くべきことに新口駅から北へ300mほど行った下つ道沿いにありました。 これは、多までの三宅道の延長線から、大きく東へ振った向きで、全く私の予想に反するものです。
 しかも、村井さんの話では、家の前を通る下つ道が太子道だというのです。 これは太子道は新口からは下つ道に沿って南下していたという定説を肯定するものです。

        

 しばらくして後、再び私は村井さん宅におじゃまして、さらに詳しい昔話を伺うことが出来た。
 そのとき、私が昔は多から村井さんのお宅まで斜めの道があったと言うような話を聞かれたことはありませんかと伺ったところ、驚いたように、「斜めの道? 多さんからの斜めの道? そんな話は先祖から一言も聞いたことおませんなあ。」と、 斜めの太子道があったとは信じられない様子でした。 しかも近くの多の古老たちが知っていた多にある斜めの太子道の痕跡すら、ご存じなかったのです。 あくまで太子道は家の前を通る下つ道だと信じておられました。
 この謎の解明は後程いたします。

  さあここからの謎解きにはホームズ君の再登場を願いましょう。

ホームズ君との対話


ワトソン: また、君を呼ぶことになってしまったよ。
ホームズ: いえ、実は呼ばれるのを心待ちにしていたんです。
ワトソン: この前とは、大違いだね。
ホームズ: その後、先生は何か手がかりを掴まれたんですか。
ワトソン: いや、さっぱり分からなくなってね。考え方を大転換せざるを得なくなってしまった。
ホームズ: 大転換?
ワトソン: 今まで、太子道は飛鳥へ向かうとばかり考えていたのだが、村井さんのお宅を通るとなると、道は耳成山の方向をめざすことになる。
 そこでだ、耳成山の周辺に何かないかと調べてみたんだが、それが大有りだったんだ。
ホームズ: 何ですか、それは。

耳成行宮

ワトソン: 耳成山の麓の木原町に推古天皇の行宮(あんぐう=仮宮)跡があったんだ。そこへ出かけてまたびっくりだ。その場所に樋口神社があるが、その社殿が斜めを向いて建っているではないか。写真では分かりにくいが、後ろの建物と比較するとよい。

  樋口神社(北から撮影)

ホームズ: ああ、本当ですね。
ワトソン: その樋口神社の東側の今樋口会館という地元の公民館が建っている所が行宮の跡らしい。この行宮が日本書紀に登場するのは唯一個所、
   推古9年5月の記事に
    「天皇、耳梨の行宮に居します。是の時に大雨ふり、河の水漂よひて、宮庭に満めり。
  とある。
  同じ年の春2月の記事には
   「皇太子、初めて宮室を斑鳩に興てたまふ。
  とあり、同じ年に斑鳩宮の建設を始められたようだ。
 日本書紀によれば、推古天皇の小治田宮に遷られたのが推古12年、太子が斑鳩宮が完成して住まわれたのが推古13年であるから、耳梨の行宮に居られたのは、太子道建設のためだったと思われる。
ホームズ: もしかして、太子道をここから造り始めたんでしょうか。
ワトソン: あとで、GPS測定の結果を紹介するが、たぶんそのようだね。後ろに耳成山があって、遠くまで見通すこと出来るので、建設の原点に最適だ。
ホームズ: すると、耳成山の山頂から眺めて道の建設を始めたんですね。
ワトソン: 残念ながらそうではない。前の樋口神社の写真の背後の山を見ると分かるように、山頂から少しずれている。山の中腹から見通して建設を始めたようだ。
ホームズ: どうして、そうなったんでしょうか。・・すみません、先生に理由をお尋ねしても分かるはずないですよね。
ワトソン: いや、理由があるんだ。
ホームズ: えっ、本当ですか。どうしてそんなことまで分かるんですか。
ワトソン: この神社は特別な場所にあるんだ。この航空写真を見てごらん。何か気付くことはないかね。

        

ホームズ: えーと・・・あっ、耳成山の麓の北端からの接線と西端からの接線が交わる場所にある。
ワトソン: よく分かったね。その通りだ。しかしなぜこんな場所を道建設の原点に選んだんだろう。
ホームズ: うーん・・よく分かりません。先生、またヒントを下さい。
ワトソン: いつもそうだな。今回は自分で考えてみなさい。実はすでにヒントを与えてあるんだよ。
ホームズ: えっ、本当ですか。何がヒントかなぁ?・・うーん、ヒントをさがすヒントを下さい。
ワトソン: しょうがないなあ。それじゃ、忘れたかも知れないので、もう一度言おう。
 推古天皇が小治田の宮に遷宮されたのが推古12年、道の建設を始めたのが、もっと早い時期−−遅くとも推古9年ということだった。
ホームズ: それじゃー、道を作り始めたときには、まだ小治田宮が出来ていない。
ワトソン: そうだ。それなら、どこから太子は通おうとされたのかな。これがヒントだ。
ホームズ: うーん。そうか太子は上宮に住まわれていたんだ。だから、最初、上宮から通われた。
ワトソン: その通り。その上宮はどこにあったかは、諸説あってまだ分からないが、とにかく、耳成山から見て、南西の方向にある山際だ。
ホームズ: とすると、耳成山が道の途中にあるということか。・・・道は耳成山にぶつかる。・・耳成山の裾野を迂回するしかない。・・うーん、なるほど、そうだったのか。
ワトソン: 分かったのかい。
ホームズ: たぶん、こう云うことだと思います。耳成山を迂回するには、2通りあって、山の北側の裾野を回るコースか、南側を回るコース。どちらのコースでもこの行宮の位置なら等距離になる。
ワトソン: そうだ。まさにそういう場所を選んだんだね。面白いことに、日本書紀はそれに気付かせるような記述をしている。
ホームズ: へぇー、どんな記述ですか。
ワトソン: さっき言った記述だ。
 推古9年5月の記事に
    「天皇、耳梨の行宮に居します。是の時に大雨ふり、河の水漂よひて、宮庭に満めり。
 とある。
 地図を見ると米川が耳成山の北東を巻くように流れているが、これが氾濫したというのだ。だから、太子は川のようすを見て、北まわりをされたり、南まわりをされたんじゃないかな。
ホームズ: 面白いですね。日本書紀がヒントを与えている。
ワトソン: 第5章でも板屋ケ瀬橋の完成の遅れを示唆していた。わしは、歴史の専門家ではないので分からないが、後世の人が読み解いてくれるのを、楽しみに書いていた節もあるね。
ホームズ: へぇー。

 耳成道

ワトソン: ところで、わしは、太子道の写真を撮ろうと耳成山に登ったんだが、樹木が鬱蒼と茂って見晴らすようなところが全くない、あきらめて下山していた途中、大木が1本根こそぎ倒れている所を見つけた。
 そこから望遠カメラで撮った写真に面白いものが写っていたので、紹介する。
 写真の一部をさらに拡大したものだが、太子井戸のある村井さんのお宅と新堂神社の森、さらに奥に少し横に多の太子道沿いの神社の大樹が並んで写っている。さらにずーと奥には微かに法隆寺が見える。

 

ホームズ: へー、面白い、ほぼ一直線に並んでいるのがよく分かります。
ワトソン: こんな写真が撮れるように、この個所だけ大木が倒れていたんだ。偶然にしては不思議だね。
 さてこの後、GPSデータで樋口神社と太子井戸を結んでみたんだが、何とその延長線が最初に述べた斜向道の痕跡 (b) をぴたりと通る。
 また (a) とすぐ近くのジグザク道の中央を通ることも分かったんだ。しかし、樋口神社と村井さんの家の前の道路を結んだのでは、大きくずれてしまってだめなんだ。

        

ホームズ: と云うことは、この道は太子井戸のところを通って、斜めに通過していた。先生、その角度は?
ワトソン: 西偏角が約32.2°だ。三宅道の角度が約17.6°だから約倍ほどある。また、この道は村井さん宅の敷地を通っていたことになるよ。
 このことから、村井さんが斜めの道をご存じなかった理由が分かるだろう。
ホームズ: えっ、理由。それって矛盾していますよね。村井さんの家を斜向道が通っていたのに、それを知らなかった。・・そうか。分かりました。村井さんのご先祖は、この道が無くなった後の時代にこの場所に住まれた。
ワトソン: そうだ。たぶん、後の時代に下つ道が造られ、米川もそれに沿うよう流れをつけかえられ、元の斜向道はつぶされて、この辺りは街道として整備された。
 その時代にご先祖が街道沿いに住まれたんだ。その時、この井戸は聖徳太子様が水を飲まれた由緒のある井戸だと教えられ、大事にその伝承を受け継がれたんだ。 たぶん、そう云うことじゃ、ないかな。
ホームズ: なるほど。すると、下つ道は太子道がつぶされた後に作られた。
 ところで、ワトソン先生、この耳成からの斜向道をさらに延長すると、どうなりますか。

三宅道と耳成道の接続


ワトソン:
 西新堂の集落を斜めに横切って、新堂神社の西横を通り、多の南の田圃のど真ん中にジュウロクヤマと云う塚があるが、その西4〜50mほどの地点で三宅道と合流していたことになる。これが、その図だ。

    

 以前にこの付近の水路沿いの発掘調査(多遺跡第9次・橿原考古学研究所1984年)が行われたんだが、道の痕跡が見つかったという記述は調査報告書にはない。 しかしジュウロクヤマの西に7世紀末葉に埋没した河の遺構が見つかっている。
 この時期は太子道が破棄されたと想像される時期と重なるのが気になる。道の東側溝として利用されていた可能性もある。
 とにかくこの田圃中のどこかで2つの斜向道が交差していたはずだ。
 わしはたぶんこの辺りに仮宮が作られ、道の再測量が行われて、新たに多から北へ伸びる長い三宅道が構築されたと想像している。
ホームス: 何か証拠でもあるんですか。
ワトソン: いや、証拠ではないが、これを解くキーとなるのが、ジュロクヤマの近くにある小字名「大上院」と、多の西にある「矢継神社」にまつわる伝説だ。
 この伝説とは「太子が新しい宮つくる場所を選定するため、飛鳥から矢を射られたところ、矢継神社の境内に落ちた。しかし、そこが狭かったため、第2の矢を射られると、屏風の杵築神社に落ちた。さらに第3の矢を射ると斑鳩に落ちた。」と言うものだったね。
 これは、太子道建設のための「仮宮作り」の話だったとすると、最初の仮宮は小字「大上院」の辺りに作られた可能性がある。
ホームズ: ちょっと待って下さい。矢継神社はこの辺りではなく、もっと西にありますよ。
ワトソン: そうだね。わしの勝手な想像だが、この辺りの太子道が廃止されたとき、その代わりとして、西側に正南北に走る「矢継街道」が作られたんだ。廃止の際に、仮宮である「大上院」もつぶされ、代わりとして矢継街道沿いの地に「矢継神社」として祭られた。 どうだろう。
ホームズ: なるほど、話としては面白いですね。しかし、先生には失礼ですが、それは単なる説ですね。
ワトソン: なかなか手厳しいね。そう言われるとその通りで、反論のしようもないよ。
 しかし、第1章でみたように、この矢継街道は後世、太子道の代わりの街道として利用され続けてきていて、田原本町宮古であの三宅町からの筋違道と接続しているんだ。まさに、新しい太子道だ。だから、わしは自説を信じているんだよ。
ホームズ: そう言われると、何か意味深な名前ですね。「矢継街道」って。昔の人は名前の付け方も上手かったんだなあ。
ワトソン: 本当だね。しかし、それを感じるなんて、ホームズ君もたいしたもんじゃーないか。
ホームズ: ・・・・・ワトソン先生にうまく誘導されて、煙にまかれてしまったようですね。
ワトソン: ハハハハ。
( 註: 話に出てきた「大上院」とは、もしかすると、興福寺の門跡である「大乗院」のことかも知れない。大和には興福寺領が多数あり、多の隣りの新堂村も興福寺領であった。すると上の話は間違いとなる。)
   

 なぜ太子道は多の所で曲がっているのか


ホームズ: それはいいとして、先生、どうして、太子道は多のところで曲っているのでしょうか。 何か理由があるのでしょうか。 
 失礼、先生が設計したわけでなし、先生にそんなことを尋ねても分かるわけないですね。
ワトソン: いや、ちゃんと理由があるんだ。
ホームズ: えっ、本当ですか。
ワトソン: 前に述べたように、太子は耳成山の向こうの上宮に住まわれていたので、道の建設はそこから始められたと考えられる。 つまり、上宮から耳成山への道が最初に作られたと考えられる。
次いで、それに接続する耳成山からの道が作られたと考えるのが自然だ。
ホームズ: その可能性が高いでしょうね。
ワトソン:  そこでもう一度、前に紹介した、耳成山から、わしが撮った望遠カメラの写真を見てくれ。

  

 耳成山からの道を延長すると、現在の法隆寺の辺りにぶつかる。 このことは G P S データからも言えるんだ。
ホームズ: すると最初、太子は耳成山から一直線で「斑鳩」に向かう道を計画されていた!
ワトソン: そうなんだ、それが途中で、計画変更されたことになる。
 なぜだか分かるかね。ホームズ君。
ホームズ: うーん、その理由か。.... ちょっと考えさせてください。....
 あっ、「あどのむろつみ」に行く道か!
ワトソン: そうだ、第5章で述べた外国からの賓客を迎えるための「迎賓館」である「阿土の館」へ行く道と、「斑鳩の宮」へ行く道とを「併用」する道に、途中で設計変更したんだ。
 その痕跡が、多のところのカーブだ。
ホームズ: へぇー、そんなことも分かるんだ。 すごいですね。
ワトソン: 本当だね。このことから、太子は、「阿土の館」を如何に重要視していたが分かる。 第5章で述べたように、日本国を諸外国と対等な、先進国であること賓客に、見せたかったのだ。
 そのため、推古18年には、新羅・任那の使節を飾り馬で迎えて、この道幅30mの大道「筋違道」を、「阿土の館」から飛鳥の都まで堂々と行進したんだ。
ホームズ: さぞかしびっくりしたでしょうね。
 なるほど、前の章で言われた話は本当だったんですね。

       

飛鳥への太子道


ホームズ: ところで、先生、今言われた「飛鳥」へ行く道はどうなったですか。 さっきからずーと気になってたんですが、全然その話が出て来ない。まさか小治田宮への道はなかったとでも。
ワトソン: ああ、わしもそろそろ、飛鳥への道の話を始めようかと思っていたんだが、この耳成への道の話にけりがついてからでないとね。
それじゃー、ホームズ君がそれ程お待ちかねなら、いよいよ、その話を初めようか。
ホームズ: まってました!ワトソン先生。
ワトソン: ハハハハ、そんなに期待されては、困るよ。今までと違って、この道ほど微妙で、難しい判断をしなければならないものはなかったよ。と云うのは、手がかりが殆どない。
 実は最終的には、たった2地点から推測するしかなかったんだよ。心細い限りだ。しかもこの道の全長は約5kmもある。だから、ほんのわずかな測定のずれで大きく変わってしまう。そんなものだからね。
ホームズ: へー、そうですか。どういうことかさっぱり分かりませんが。
ワトソン: ところで、先ほどの、耳成への道の発見で、飛鳥道の北端の始点を決める必要がなくなったのは大助かりだったよ。
ホームズ: どういうことですか。
ワトソン: 飛鳥道は多から出発する必要はない。考えてもご覧。最初(推古9年)に耳成道が作られ、さらにそれを北へ繋ぐかたちで三宅道が作られた。 そして推古12年に小治田宮が出来たわけだから、耳成道の途中から新たに飛鳥道を枝分かれさせたと考えられる。だから、飛鳥道が他の道と同様に直線の道だったと仮定すれば、 飛鳥道の直線を決める2点が分かれば、その直線と耳成道の交点を求めるとそれが分岐点(追分)ということになる。(図参照)
ホームズ: なるほど。僕も理系人間ですから、仰っていることはよく分かりますよ。

ワトソン: そこでだ、その飛鳥道を決める2点を探すことになる訳だが、候補は初めに云ったように、3個所しかない。
 先ず第1は新賀町の市杵島神社の横の道(d)、第2は醍醐町の天理教会の横の道(f)、第3が同じく醍醐町の環壕の西に沿う道の一部(g)だ。
 それから南は調べたが、全く痕跡らしいものが皆無だ。それもそのはず、醍醐町の第3の候補地の直ぐ南には藤原宮跡がある。
ホームズ: だから、藤原京造営のときに、太子道はきれいさっぱり消し去られた。と云うことですね。僕も藤原京跡に行ったことがありますが、大きな都だったようですね。今一部が公園として整備されようとしていますが、その部分だけでも広大ですからね。
ワトソン: その通りだ。
ホームズ: しかし、僕は博物館に行って、藤原京の復元模型を見たことがあるんですが、藤原宮よりかなり北の方も含む壮大な都だったように思うんです。だから、先生のおっしゃる醍醐町なんかもすっぽりその中に含まれてしまいますね。だったら、醍醐町の斜向道の痕跡も消し去られていたはずではないですか。
ワトソン: わしも最初はそう思ってたんだが、どうもそうではないらしい。それは、後で説明するよ。
ホームズ: へぇー。
ワトソン: そこでだ。前にも言ったように、この3つの候補地は残念ながら1直線上に乗らない。ほんの少しだがずれている。だから、その中の2点を仮に選んで、その2点を結ぶ直線が実際どうなるかを調べてみた訳だ。
ホームズ: なるほど。さすがは先生。
ワトソン: 先ず、新賀町の神社横(d)と、天理教会横(f)を結んでみた。それを南へ延長するといくつかの丘にぶつかってしまう。じつは飛鳥の飛鳥川の東側には田圃を挟んで小さな丘が海に浮かぶ列島のように並んでいる。ほらこの航空写真をみてご覧。

     

ホームズ: ああ、本当だ。
ワトソン: わしは、最初もしかしたら、その丘の上から眺めて道作りを開始したのかとも考えたのだが。しかし、それでは、小治田宮には遠すぎる。それでこの組み合わせは却下だ。
ホームズ: すると残る組み合わせは2通りですね。
ワトソン: しかし、その内の醍醐町(f)−醍醐町(g)間は短すぎる。その上その直線は大きく西へ振ってしまう。
ホームズ: すると、残りは一つ。ワクワクしますね。
ワトソン: 勝手に、ワクワクしたまえ。こっちは真剣だ。
ホームズ: すみません。
ワトソン: これがだめなら、手がかりゼロだ。しかし、この組み合わせは最有力なんだ。この醍醐町の地点は面白いんだ。
ホームズ: へぇー。
ワトソン: この写真を見たまえ。ほら溝の中に何かあるだろう。

   (南から撮影)

ホームズ: 大きな石が2つ、これは何かの礎石でしょうか。
ワトソン: 昔は醍醐廃寺の礎石説もあったが今は、藤原京の海犬飼門の礎石だという説が有力で、その側に立っている説明板にもそう記されている。そこでだ、そこで。よく見なさい。何か気付くだろう。
ホームズ: あっ、礎石2つが斜めに並んでいる
ワトソン: そうなんだ。藤原京と云えば碁盤の目のようにきっちり東西南北に道が張りめぐらされていたはずなのに、ここは違うんだ。
ホームズ: でも、藤原京の模型では、ここも含めて南北に揃っていましたよ。
ワトソン: 博物館の人にも聞いたんだが、あの模型は単なる想像図の模型だというんだ。実際に発掘された個所はほんの僅かにしか過ぎない。だから本当の姿はまだ分からない、と正直に言われたんだ。
ホームズ: すると、ここまで斜向道が延びていた。
ワトソン: その可能性はある。というのは、天理教会横も古い明治の測量図をみると、池から流れ出したジグザクの水路の一部で、消えた水路も斜向道の痕跡かも知れない。そうするとこの礎石はまさに動かぬポイントだ。
 そこで、わしはGPSと位置計算用に旧式のカシオペアを持って、延長線を調べながら、飛鳥の田圃中を歩いたんだ。
ホームズ: ご苦労さまです。
ワトソン: すると、驚いたことに、あの飛鳥の丘の並びを避けるかのように、丘列と飛鳥川に挟まれた細長い田圃地の中を、川にも丘にもぶつからずに進むではないか。そしてどこまで行ったと思うかね。
ホームズ: さあ?
ワトソン: わしはその前に大体予想を立てて、たぶん雷丘だろうと思っていたんだ。小治田宮の推定地だからね。多分丘の上から見通して測量したに違いない。そう思って事前にGPS測定もやっていたんだ。

飛鳥川の対岸から雷丘の南丘を見る。その向かって左裾野で川にぶつかった。(東より撮影)


 雷丘は北丘と南丘の2つがあるが、ところがその北丘の西を通り、南丘すれすれにその西裾を通って、飛鳥川が大きくS字を描いて曲がるところに到達した。
 河原には巨大な岩があり、岩を洗うように清流が音を立てて流れている。 飛鳥川のイメージは穏やかな流れで、こんな所があるのかと、びっくりした。何か飛鳥の真奥にでも到着した気分になった。本当は飛鳥の入り口なんだがね。 すぐ、川を渡った西に推古天皇の元住まわれていた豊浦宮のあった向原寺がある所だ。
ホームズ: すると、測量開始地点はどこなんですか。
ワトソン: その川を渡った南には、有名な甘樫丘がある。
 測量原点、太子道の測量起点は甘樫丘だったんだ。雷丘よりずっと高く、遠くまで見通せる丘だ。
ホームズ: へぇー、それは意外と言うか、平凡な結末ですね。
ワトソン: いや、結末はまだ早い。
ホームズ: まだ何かあったんですか。
ワトソン: そうだ。そこで今度はGPSを持って甘樫丘に登ってみた。頂上が線上に来るか調べてみたんだが、残念なことに頂上から東に数10m下ったあたりになるんだ。ショックだったよ。
ホームズ: だけど、それは誤差の範囲ではないですか。
ワトソン: 確かに、基準にした2点は甘樫丘から約3kmと約4km離れた地点だから、少しの測定誤差が大きく増幅される。しかし、大きすぎるように思われた。
ホームズ: 先生は神経質ですね。
ワトソン: 学問や真実に対してはね。日常生活はいいかげんだけど。
ホームズ: それは言えてま・・。いや、そんなことはないでしょう。
ワトソン: ・・なぜこんな失敗談を長々と話しているかと云えば、このことから、新しい発見というか証拠をみつけるきっかけになったからだ。
 実はGPSで田圃中の延長線を調べているとき、小山という丘の麓に作られた大きな県立飛鳥テニスコートの上を一部通過することに気付いていた。しかもそこは西側の農地より一段高く整地されている。
 コート建設前はどんなところだったのか、近くの農家をお訪ねして、90才になられる古老に話を伺ったところ、小さな丘があったとのこと、コートと農地の境の水路は昔のままであるとのことであった。
 もしそうであるなら、太子道の一部が丘に引っかかることになる。わしが今まで調べた太子道はすべて平坦地を走り、丘や高台を通るということは無かった。

 そこで、昔の地形図を探したが適当なものが無かったんで、条里復元図をみると確かに低い小さな丘が描かれている。 しかもだ、この丘の小字名がなんと「道山」なんだ。
ホームズ: えっ、もう一度言って下さい。ちょっとウトウトしてしかけていたもので。
ワトソン: 「道山」だ。こんな名前が付くのは、近くに大きな道が通っていたとしか考えられない。
ホームズ: もしかしてそれは、「太子道」では。
ワトソン: わしの直線ではその丘を少し通ってしまう。しかし、もし道の測量原点を甘樫丘山頂に修正すれば、私の直線が少し西にずれるので、丘にぶつからず、すぐそばを通ってくれる。
ホームズ: なるほど、太子道がすぐ側を通る丘なので「道山」か。ここを太子道が通っていた大きな傍証になりますね。

ワトソン: そうなんだ。今まで、わしのこの飛鳥道についての証拠が殆どなかった。主張をまともに受け止めてくれそうもない状況だった。
ホームズ: すると、先生にとっては大発見なんですね。しかも測量原点がちょうど甘樫丘山頂になる。
ワトソン: そこで、測定を反省してみると、醍醐町の礎石のある溝の位置を基準にしていたことに気付いた。太子道が広いことを考慮するともっと西の位置を基準にすべきだった。 この修正をすると、ほぼ甘樫山頂を通り、道山に引っかからずにすべてうまく行くことがわかった。
ホームズ: それはおめでとうございます。大変だったんですね。
ワトソン: 道は勿論、甘樫丘までではなく、手前のいわゆる山田道と交差する辺り、つまり雷丘の西麓まで来ていたと考えられる。ここからだと、西に豊浦宮や旧小治田宮伝承地、東に雷丘東方遺跡があり、 どちらへも至近距離だからね。

 甘樫丘より。赤線が推定太子道。田圃中の塚の横を通り、テニスコート(=道山)の茂みのすぐ傍を通る。 このように丘から眺めて道は造られたと考えられる。



ホームズ:なるほど。ちなみに先生、道の角度は?
ワトソン: 約19.42°になる。
ホームズ: やけに細かいですね。
ワトソン: 勿論、誤差はあると思うが、今回はそれ程の微妙さが必要だったんだ。
 さあそこでだ、ホームズ君。その道を真っすぐ北に延長すると、耳成道の一体どこにぶつかると思うかね。
ホームズ: ウーン・・まさか、村井さんの太子井戸ではないでしょうね。
ワトソン: その「まさか」だよ。ただ、誤差があるので、正確に特定できないが少なくともすぐ近くだ。
ホームズ: へぇー、それは驚きだ。























 Aは耳成行宮跡

 Bは新口の太子井戸

 Cは新賀町の市杵島神社横

 Dは醍醐町の海犬飼門礎石横

 Eは小治田宮推定地

ワトソン: たぶん、村井さんのお宅のあたりが街道の追分のような場所で、休憩所が設けられ、太子は井戸の水を飲まれたんだろう。ここで、飛鳥へ行こうか、古巣の上宮へ帰ろうか考えられたかも知れないね。
ホームズ:へぇー、そんな想像ができるなんて、すごいですね。
ワトソン: すべてGPSのおかげだよ。
ホームズ: それに、先生が何回も仰っていた。「聖徳太子様のお力添え」があったのかも知れませんね。
ワトソン: うーん、全く不思議だ。別に聖徳太子様からのお告げがあった訳でも何でもないよ。しかし、どう考えても不思議でしようがない。わしは半年前には、全く何も知らなかったかったんだよ。それが芋づる式に、 いろんなことが分かって来るなんて驚きだよ。
ホームズ: 北の端から南の端まですべてですからね。
ワトソン: そうだよ。実は、その北と南のその先について調べたこともあるんだが。今日は疲れた。その話は別の機会にしよう。
ホームズ: 今日の話も大変面白いかったです。話に続きがあると伺って、また楽しみが増えました。
ワトソン: そうそう。今日の話を終えるにあたって、わしがとても気に入っている写真を見せよう。

 これは、飛鳥の東にある冬野から下山途中に見晴らしの良い場所に出たのでそこで撮った写真の1枚だ。

  

 左の丘が甘樫、その前が雷、そして飛鳥川が向こうに向かって流れている。小さな丘群の向こうの田圃を太子道が通っていく。耳成山の左手前の森が藤原宮跡。その前の広い田圃の真ん中を通り、 道は耳成山の左で耳成道と合流する・・・そして生駒山の手前に見える丘陵の麓の斑鳩の宮へ向かう。


第6章のまとめ


  •  新口にある下つ道沿いの太子井戸と耳成山北西山麓にある推古天皇行宮跡にある樋口神社(たぶん太子道の始点跡に後世建てられた神社)を結ぶ線は丁度西新堂の斜向道痕跡2個所を通る。
  •  この直線と三宅道の延長線は多集落南にあるジュウロクヤマの西で交わる。
  •  日本書紀の耳成行宮の記事が太子道建設の時期と重なる。このことから、耳成行宮は太子道建設の目的で作られたと考えられる。しかも、太子が休まれて水を飲まれたと伝承されている井戸を道が通っていることから、 この道は「太子道」(耳成道)である。建設時期から、この耳成行宮から多の南へ直線路が初期に作られたと推測される。
  •  この道は太子が上宮から通われる目的でつくられた。このことは、耳成行宮が耳成山を北回り、南回りでも等距離となる位置にあることから推測される。
  •  多から角度の異なる三宅道が建設されたと考えられるが、そのための仮宮が小字名「大上院」辺りにつくられたと推察する。
  •  当初の計画では、耳成山から斑鳩への直線路をつくるつもりで建設が開始されたが、途中で「阿土の館」への道と併用できるように計画が変更されたと考えられる。それは、「耳成道」の延長が丁度、現法隆寺へぶつかるような向きに向いていることから推測できる。この建設途中での計画変更のため、多集落の南で、太子道の向きが変えられたと想像される。
  •  この途中での設計変更は、聖徳太子が、外国の賓客を迎える「館」への大道の建設を如何に重視されていたかを示すと共に、「阿斗の館」の場所が、通説の現在の田原本町「阿刀」ではなく、現、安堵町の「阿土」にあったことを示している。
  •  推古18年には、この道幅30mの大道「筋違道」を、額田部比羅夫と膳大伴が先導して、新羅、任那の賓客を乗せた飾り馬の隊列が、現・安堵町阿土にあった館から、現・田原本町多、現・橿原市新ノ口を経て飛鳥の都まで行進したことが分かる。
  •  小治田宮建設に合わせて、時期的に遅れて飛鳥への太子道(飛鳥道)が作られたと考えられる。
  •  飛鳥道の痕跡は、橿原市新賀町の市杵島神社横と同醍醐町の海犬飼門の礎石横の斜向道にある。
  •  この市杵島神社西横の斜向道と海犬飼門の礎石から西10m地点を結んだ直線は丁度、甘樫丘の頂上を通る。また途中にあるテニス場のすぐ西側を通るが、このテニス場は元「道山」と称する小丘であった。
  •  また、この直線は、太子井戸(の直ぐ近く)を通る。つまり太子井戸近くで耳成道と交差する。しかし更に直線を北へ延長すると大きく多から東へそれてしまう。 このことから太子井戸付近から耳成道と分岐する形で飛鳥道が作られたと想像される。
  •  これらのことから、飛鳥道は甘樫丘の頂上から見通して、直線路として作られ、太子井戸付近が耳成道との分岐点(追分)であった。
  •  また後世、藤原京が造営された時にも海犬飼門に至る一部の太子道は破壊されずに利用されていたと想像される。

  以下に、4、5、6章の結果をまとめて図示しました。
   壮大なスケールの大道であったことが分かります。

      

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