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GPS考古学序論




筋違道の謎を解く


第0章 序論

第1章 筋違道入門

 若草伽藍の礎石の話
   

第2章 筋違道のなぞ

   

第3章 GPSデータの解析

   

第4章 安堵町以北の解明

   

第5章 安堵道と三宅道の接続の解明

   

第6章 多以南の道の解明

   

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第7章 上宮への道(磐余道)

   

第8章 斑鳩宮への道


太子道(筋違道・すじかいみち・日本最古の官道)の謎を解く−−−筋違道の研究


 

第1章  筋違道入門

       太子道(筋違道)の基礎知識


 この章は現在までに知られている筋違道とその関連史跡の案内です。
 筋違道をご存じの方は読み飛ばしてください。
 田原本町宮古から多までの筋違道の痕跡も紹介しています。

太子道への招待

 聖徳太子(別注参照)が通られた道、あるいは広く太子ゆかりの寺へ参拝する道を「太子道」と呼んでいます。各地にそう呼ばれる道がありますが、ここでは、聖徳太子が飛鳥の宮と斑鳩の宮を往復されるために作られ、 太子が愛馬黒駒に乗って日々通われたと伝えられる狭義の太子道(筋違道)を紹介いたします。
 まず太子道の南の起点ですが、南は飛鳥の推古天皇(太子の伯母にあたる)の小治田宮だと思われます。飛鳥の橘寺という説もありますが、それは太子ゆかりの寺として飛鳥の総称として使われているだけで、 道の目的から考えても根拠はありません。この小治田宮は最近の発掘により、雷丘東方遺跡の辺りだと思われています。
   

 推古天皇の小治田宮は以前は飛鳥川西岸の古宮遺跡だと云われてきましたが、 現在は雷丘東方遺跡の辺りだと思われています。 千田 稔 監修 「聖徳太子」より。



 一方、北の起点である斑鳩宮は法隆寺の東院辺りにあったと推定されていますが、筋違道自身はもう少し東の斑鳩町高安付近が起点だと考えられています。

T  斑 鳩


 斑鳩から案内を始めることにします。

1. 斑 鳩 宮

夢殿。元斑鳩宮で太子が瞑想にふけられた御殿があり、 その跡に建てられた。太子をモデルに作られた秘仏救世観音が祀られている。(北西より撮影)

 太子が住まわれていた斑鳩宮は上述のように現在の法隆寺東院の辺りだと推測されています。 東院には有名な「夢殿」があって、天平時代に行信僧都が斑鳩宮の跡にこの八角堂を立てたと云われています。
 実際、修理に伴う発掘調査で太子道と同様、北から西に斜向する遺構が発見されています。
 夢殿には本尊である秘仏「救世観音像」が安置されていて、古来より太子等身の像と云われていましたが、明治時代までは 秘仏として誰もその姿を拝むことが出来なかったそうです。
   聖徳太子についてと救世観音については別項を参照。
2. 斑 鳩 寺
 次に斑鳩寺ですが、日本書紀には天智8年(669年)に法隆寺(斑鳩寺)は一堂も残さず焼けたとあります。これが正しければその後再建されたのが現在の法隆寺だと考えられます。 それでは、元の斑鳩寺はどこにあったのでしょうか、法隆寺には、西院伽藍の南東に古くから若草伽藍の跡と呼ばれる場所があり、そこに大きな塔の礎石が残っていました。 実は、この礎石は行方不明でしたが、昭和の初めに元の法隆寺に返還されました。この巨大な礎石には数奇な運命をたどった面白い物語がありますが、それは 別稿(若草伽藍の礎石の話)をお読み下さい。

礎石帰還の様子。礎石は阪神沿線の野村邸から貨車で、法隆寺駅からはこのようにコロを使って8日かかって法隆寺まで運ばれた

 この礎石の帰還と並行するかたちで、昭和14年に発掘調査が進められ、 塔の基壇跡、金堂の基壇跡が発見されました。 その結果、若草伽藍は現在の法隆寺のように塔、金堂が東西に並ぶのではなく、塔・金堂が南北に1直線に並ぶ「四天王寺式伽藍」であることが判明したのです。 しかも現法隆寺と異なって、伽藍の軸が正南を指さずに東へ20°振った向きに傾いていることが分かった。これは太子道の傾きとほぼ一致します。 太子の設計した斑鳩の都は太子道と共通する傾きを持つことが判明するとともに、現法隆寺は日本書紀の記述通り、斑鳩寺が全焼したのち、 全く新しい形で再建されたことが明らかになったのです。ここで問題になるのが仏像等の宝物が元の斑鳩寺からの物かどうかですが、 火災の際、殆どの重要な宝物類は無事運び出されたものと思われています。

  写真下、緑の中に礎石が見える。(電子国土)

     千田稔 監修 「聖徳太子」より






 斑鳩の里には他に多くの太子が造られた宮跡があります。それらを順次紹介いたしましょう。斑鳩の航空写真で案内する遺跡の位置を確認しながらお読み下さい。

  


3. 中 宮 寺
 まず弥勒菩薩で有名な中宮寺。これは尼寺で現在は法隆寺東院の東隣にありますが、元の中宮寺はそこから東に約600mほど離れた場所にあり、現在田圃中の土壇として残っています。これは元、太子の母である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の住まわれていた宮跡で没後、寺になったと考えられています。(たぶん、発掘された堂の向きから、太子の没後に寺を造ったと考えられます。)これと斑鳩の宮を結んでいた道については後程、詳しく説明します。

東院伽藍の東隣にある現在の中宮寺、弥勒菩薩で有名。(南から撮影。右が本堂)

元中宮寺跡の土壇。田んぼ中にある。発掘中。(南から撮影)

 


4. 法 起 寺 (岡 本 の 宮)

 南東から見た法起寺。夕焼けに染まる風景は一幅の絵になる。

 次に法起寺。 これは法隆寺の北東約2kmにあり、日本最古の3重塔で有名です。山際の田園の中にあり、日没前のたたずまいは一幅の絵になる所です。
 もと岡本の宮があった場所で、書紀には推古14年(606年)太子が法華経を講説されたとあります。ここには、太子の長子である山背大兄皇子や、 太子の妃である刀自古郎女(とじこのいらつめ)が住まわれていたと考えられている。
 塔の露盤(屋頂にある四角い台)銘に太子が亡くなられる直前に山背大兄皇子を呼んで、宮の跡を寺にするよう遺言されたと記されていたそうである。 これが法起寺の前身の池尻尼寺で、当時の3重の塔が残っているわけです。
 この寺は、安堵町を通る太子道の延長線にほぼ位置するので、太子道がこの岡本の宮まで延びていた可能性があって大変興味深い。 これについては、第4章で謎解きいたします。


5. 太 子 の 妃 に つ い て
 ところで、太子の妃は4人(5人との説もある)おられた。
 第1妃は敏達天皇と額田部皇女(後の推古天皇)との間に生まれた菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)であるが、夭折されたようで、子はない。
 第2妃は蘇我馬子の娘である刀自古郎女(とじこのいらつめ)である。山背大兄皇子ら4人を産まれた。
 第3妃は膳部郎女(かしわでのいらつめ)で太子最愛の妃であったといわれ、伝説も多い。斑鳩地方の豪族・膳部加多夫古(かしわでのかたぶこ)の娘とも、 橿原市の膳夫(かしわで)の農家の出身とも言われている。
 私は後者が正しいと考えています。後に述べるように太子道の謎を解く1つの鍵でもある。妃の中で最も多い8人の子を産んだ。 (膳部郎女については別稿参照)
 もう一人の妃は推古天皇の孫である橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)で、妃の中で最も若く、2人の子を産んだ。太子薨去の際には、深く悲しまれ、太子の冥福を祈るため、天寿国縫帳を作られたと云われています。


6. 葦 垣 宮
 斑鳩のもう一つの宮は飽波葦垣宮(あくなみあしがきのみや)で、法隆寺の南東約1km現在の富雄川の西岸にあったと考えられています。
 その伝承地には昭和の時代まで成福寺があったが、無住の寺であったため荒れ果て(大正時代には禅僧の沢木興道師が一時この寺に住まれて勉学、 修行に励んでおられたそうである。)、現在は取り壊されてフェンスで囲まれた跡地だけが残っている。
 また近くには「神屋(かみや)」(太子の「上宮(かみや)」と関連が考えられる)という小字があり発掘の結果、平安時代の遺構が見つかった。 現在、遺跡公園として整備されている。

成福寺のあと。寺は取り壊され、 フェンスで囲まれている。ここが葦垣宮伝承地である。(北から撮影)

上宮遺跡公園。成福寺跡の北隣にあり、 平安時代の遺構が見つかった。(西から撮影)



 この宮は太子最愛の妃膳手郎女が住まれていた所であり、太子が薨去された地でもあります。
 この薨去につては、「推古29年12月に母后間人皇后がさきに崩ぜられ、その看病疲れで太子・妃ともに床に臥し30年2月21に妃、 翌22日に太子が相次いで亡くなられた。」と伝えられている(法王帝説・釈迦三尊光背銘文)。
 そして河内の磯長廟へ3人が合葬された。まさにかい老同穴であり、後世「同穴妃」と呼ばれた。
 この葦垣の名も、愛の垣根、恋のデートの場という意味をもつ語であり、御2人の睦まじい仲を連想させる名称です。


7.  駒 塚、 調 子 丸 塚
 この葦垣宮の北方目と鼻の先に調子丸塚古墳さらにその北、国道のそばに愛馬黒駒が葬られたと伝えられる駒塚古墳が並んでいる。  太子が飛鳥と斑鳩を行き交うのに乗られたのが黒駒で、その御者が調子丸です。

上宮遺跡公園のすぐ北の田圃中に調子丸塚古墳がある。その背後に見える森が駒塚古墳である。 (南から撮る。)

  駒塚古墳。左側すぐ横を国道25号が通っている。(西から撮る。)



 この内、駒塚古墳は前方後円墳であり、発掘の結果4世紀後半のものであると推定されていることから、黒駒とは関係がありません。たぶん地の人が古墳の形から「駒塚」と呼んでいたのでそれから連想されたものでしょう。 この駒塚のある地名は東福寺ですが、太子建立46か寺の1つだったそうですが、今は地名だけです。


U  太 子 道


 斑鳩周辺の解説から離れ、いよいよ太子道(筋違道)を辿っていこう。

1. 高 安

手前の南北の畝や左の家と比べて、写真中央奥の家の向きが斜向しているのが分かる。 中央の家と手前の家の間を東西に走る道が業平道で、昔は幅3尺ほどの細い道だったそうです。(南から撮影)

 葦垣宮の東に富雄川が流れている。太子の時代には、富雄川の本流はさらに東(筋違道のさらに東)を流れていたようで、流れていたのは富の小川と呼ばれる小さな川であった。 それを渡ると高安と云う集落に出る。
 ここには在原業平の伝承が残っています。村落の南を東西に走る道は「業平道」で、河内の高安へ業平が通った。このとき、娘がさらわれないように顔に鍋墨を塗ったといわれています。
 この高安には斜行道のなごりが見られます。これは、安堵町からの筋違道の延長にあたるので、筋違道は高安まで延びていたと考えられます。

 この集落の西には先ほどの葦垣宮があるので、飛鳥から来られたときは、高安から小川を渡って、葦垣宮や斑鳩宮に行かれたと想像されます。しかし高安から道は更に北の岡本の法起寺まで延びていた可能性もあります。 (これの解明は第4章で行います。)

   高安集落の航空写真。○で囲んだ部分の家が斜向している。写真左端、わずかに見える橋が業平橋。



 さて、この高安の南はJRの線路まで水田が広がり、一見道の痕跡がないように見えますが、よく見ると途中に20m足らずの斜向した用水路が残っているのが分かります。



2. 安 堵 町

安堵町の北には、JR線路から水道タンクまで明瞭な筋違道が残っています。なおJR線の北の田圃中の水路の一部が斜向しています。

 JR線を渡り安堵町に入ると明瞭な筋違道が現れます。 JR線近くの広峰から安堵町幼稚園、さらに安堵町水道局の貯水タンクまで田圃中を斜行するきれいな直線の小道が残っています。

広峰神社横の斜向道。保存状態が良い。(南から撮影)

 安堵町幼稚園横の斜向道。(南から撮影)



   道は水道タンク近くで曲がりますが、安堵町の県道を渡ると東安堵町の町中を通る斜向道に続きます。

             

 この道に突き出すように飽波神社があり、太子が腰掛けられたと伝えられる大きな石が境内南にあります。

飽波神社。安堵町の古社であるが、飽波の地名は葦垣宮を含む広い範囲に及ぶ。(東から撮影)

  太子の腰掛石(北から撮影)



 神社を過ぎると、再び50mほどの直線道になります。ここの地名は「大道」であり、筋違道が昔の大きな国道であったことを想像させる名です。

 神社の南には斜向道が残っている。(南から撮影)

  ここの地名は大道です。(東から撮影)



 大道幼稚園をすぎると直線路は急に向きを変え、 西名阪高速の高架下まで続きますが、その先は全く痕跡らしきものが残っていません。

  道は急に向きを東へ振る。奥に西名阪道高架が見える。(北から撮影)

  この先どうなっていたのか分かりません。第5章でその謎解きをいたしますので、ご期待下さい。



4. 三 宅 町
 この先、筋違道が現れるのは、南東に約2kmほど離れた三宅町の屏風からです。
 これが始めに紹介した有名な「太子道」です。西向きに流れていた寺川が北西向きに流れを変える地点にある宮前橋の西の辻からほぼ直線に南南東へ筋違道は伸びています。

     

 太子道ではありませんが、この宮前橋を渡った対岸には、式内社の糸井神社があり、見事な絵馬が多くあることで有名です。(この神社の名は後の謎解きに関係してきます。)

式内社 糸井神社。(南から撮影)

糸井神社の絵馬。特に「太鼓踊り(南無天踊り)」の絵馬は時代風俗が描かれ興味深い。(拝殿天井)



南無天(なもで)踊りの絵馬.。


雨乞い踊りを「いさめ踊り」といい、
雨が降り、満願成就したときの感謝の踊りを「なもで踊り」という。

 右下の屋台ではスイカの切り売りをしている。



  屏 風
 さて太子道を歩いて行くと、先ほどの辻から200mほど下った道の左(東)に屏風の杵築(きつき)神社の森が見え、右(西)に小さな白山神社があります。 この白山神社は太子が休憩された場所で、駒繋ぎの柳(いまは見当たらない)や太子の腰掛け石がある。地元伝承では、地名の「屏風」はここで太子が昼食をとられたとき 、村人がもてなしに屏風を立てて風を防いだことに由来するのだそうです。

屏風白山神社にある太子の腰掛石(東から写す)

太子の駒繋ぎの柳。法隆寺さんが植樹したそうですが、探してもない。枯れたのだろう。(北から写す)



 この向い(東)の屏風の杵築神社には、太子の矢突きの井戸がある。 (この地の説明板では従者が弓で地を打ち振るわれると清水がこんこんと沸き出したとある。 しかし、南にある田原本町の伝説では、「太子が新しい宮を選定するために飛鳥から矢を射られると、田原本町多(おお)にある矢継神社に落ちた。しかしここは近すぎるため、第2の矢を射られると屏風の杵築神社に落ちた。 さらにそこから第3の矢を射られると斑鳩に落ちて、そこを宮と決められた。」との伝説があります。これも太子道の謎解きの際重要になります。)

屏風の杵築神社(西から写す)

屏風の太子の矢つき井戸(南から写す)



 また、神社の拝殿には絵馬があり、 その中の一つ江戸時代末期の「おかげ踊り」の絵馬は傑作で、上手に踊りの動作を描いています。どんな踊りだったのか一目見てみたいと思わせるものです。

  




  伴 堂
 さらに下ると伴堂(ともんど)の杵築神社に出る。同じく絵馬が掲げられている。この伴堂にある三宅町役場を訪れてみたが、ロビーに太子道を撮った昭和37年の大きな航空写真が掲げられていた。 私が無断でカメラを向けていると、職員の方が近寄ってきた。注意されるのかと思いきや、「暗いでしょう。電気をつけましょうか。」と親切に声をかけていただいた。太子道は三宅町の誇りであり、宝であることを実感させられました。

   伴堂の杵築神社(南から撮影)

  三宅町役場のロビーに掲げられている太子道の写真



 この杵築神社を過ぎてしばらく行くと道は近鉄田原本線の黒田の駅に出るまでの間、かなり乱れている。



5.  田 原 本 町

       


  黒 田
 しかし黒田から再び見事な斜向道となります。しばらく行くと池のほとりにある孝霊神社の側を通ります。この辺りに第7代孝霊天皇の黒田庵戸宮(いおとのみや)が在ったとの伝承があります。

  黒田の落ち着いた街並み。(南より撮影)

  孝霊神社。道の辺にある。(東より撮影)



 天皇の皇子彦五十狭彦命と稚武彦命の兄弟活躍が桃太郎の伝説の基になったとのことから、現在田原本町は「桃太郎誕生の地」として売出し中です。
(ちなみに、西隣の広陵町は「かぐや姫の里」として、東隣の桜井市は「卑弥呼の里」として町興しを図ろうとしています。)



  宮 古

 この先もまっすぐな斜行道が続きます。宮古から保津にかかる所で斜行道が途切れてしまいます。ここは保津・阪手道(この道はさらに東南東に伸びて、中ツ道まで達しています。)と呼ばれる古代のもう一つの斜向道と交わる地点です。 この先から太子道は消滅していますが、近年筋違道の延長線にあたる田圃の発掘から太子道の側溝(幅3m)が発見され、太子道が直線的に続いていたことが「考古学的に」確認されています。

(南から写したもの)

田原本町 唐古鍵考古学ミュージアム
第3巻「太子道の巷を掘る」より


 田圃中を延長するとすぐ南を走る県道の保津交差点にぶつかります。


 

 矢 継 街 道
この先は新興の住宅地となっています。この保津の交差点から真南へは直線道の「矢継街道」が伸びています。太子道消滅後の街道と思われ、多くの村落を貫けて南の橿原市まで続く南北方向の直線路です。 途中に、先ほど述べた田原本町多の「矢継神社」があります。

 保津交差点。ここを太子道の延長線が通る。カメラの向きが太子道の方向。(南から撮る)

  矢継街道。交差点から真南に延びている。(北から撮る)




V  痕 跡 探 し


   これからは、斜向道の痕跡さがしとなります。

     

  上の航空写真を見ても、水路や道に痕跡がみられる。


 薬 王 寺
 さてこれからは、筋違道の痕跡探しとなります。一見分かりませんが、赤ちゃん用品のスーパの裏の住宅地をジグザクにぬける下水のような水路がその痕跡だと思われます(GPSで確認)。住宅地を抜けると小さな畑地に出ますが、 そこには住民が近道として利用している斜めに走る小道が痕跡として残っています。
 その南を東西に走る薬王寺の県道を渡ると、そこも新興住宅地で痕跡は残っていませんが、その南にある溜池の西側堤にはきれいな斜行道のなごりが残っていて、池の辺に「太子道」と書かれた道案内の標識が立てられています。

斜向する小道と水路、斜めの水路は写真の奥の住宅地へ続いている。(南から撮影)

池の堤防の道は斜向している。「太子道」の道標が立っている。(北から撮影)





  新 木(にき)
 その先はまた不明で、しばらく南へ行くと、新木(にき)という旧村落に出ますが、その村落の西、田圃との境に斜めに走る深い水路が痕跡だろうと思います。
 さらに南は田圃が続きますが、その田圃中にやはり斜行する水路があります。

      

 新木にある掘。掘を挟んで段差がある。(南から撮影)

田の水路が斜向している。畝の向きと比較して下さい。(北から撮影)



 その地で畑仕事をされていたご老人に、「この水路は太子道のなごりのように思われるのですが。」と尋ねたところ、きょとんとした様子で「太子道はもっと北の方、三宅町の辺りですわ。ここは関係ありません。 古い道ゆうたら、この西の矢継街道で、私は昔のことはようわかりませんが。わしのお祖父さんは昔のことをよう知っとって、矢継街道の事もよう話してましたわ、生きとったらなあ。」と言われました。
 「この水路は」と聞くと、「これはお祖父さんが大正時代に作ったと言ってましたわ。」と私がショックを受ける答えが返ってきた。たぶん元あった水路を大正時代にコンクリート固めしたことを言われているのだろうと私は想像しています。 そうでなければ同一所有者の田圃中にわざわざ耕作しにくい斜めの水路を造るはずがないからです。

 ところで、第3章のGPSデータによると、新木集落の西の水路は筋違道の西の側溝の跡だと分かるので、この集落は寺や神社を含めて後世、広い筋違道の跡地につくられたと推測出来ます。 新木(にき)の名は「新来」(にいき)に由来するのかも知れない。
 なお、集落の西約400mには、最初に天照大神を祀ったとされる「笠縫邑」伝承地があったが、現在は川の付け替えにより飛鳥川の川底となってしまった。 傍の右岸堤防下に、「姫大神」と刻まれた石碑が建てられている。
    

 さて話しの次いでに、この新木のすぐ東には、ブレーンとして太子を支えた秦河勝の秦一族が住んでいた秦庄と言う村落があって、秦楽寺(じんらくじ)という古い寺があります。 この太子道(筋違道)の建設も秦氏の力によるところが大きいと想像されます。 秦氏は西アジアに起源をもつ渡来人と言われている。
 また新木の西、2つ川を渡ったちょうど向うには百済という集落があって、鎌倉時代の勇壮な三重塔のある百済寺があります。   静かな田園地帯にある隠れた名勝の一つです。
 私は舒明天皇の「百済大寺」の跡だと思っています。桜井の吉備池で見つかった寺跡が定説となっていますが、近くの百済川=現・曽我川の東岸の「子部神社」(現・橿原市飯高町)の杜の木を切り払って建てたとの記録があり、その祟りで、寺が焼けたとの伝説からすると、この地にあったと考えべきでしょう。 あるいは、切り払った子部神社の杜の跡地に建てられたのかも知れない。この神社は式内社で由緒のある(雄略紀や日本霊異記に登場する「子部のすがる」を祀る)神社であるにも拘らず、背後や境内に森が全くないのが気になります。

秦楽寺。秦河勝の創建と伝えられている。境内に大きな古池がある。(東より撮影)

  百済寺。百済の集落にある隠れた史跡。(西より撮影)



 さて、新木から先約1kmは分譲住宅地になり、道の痕跡が消えている。



  多 (お お)

    

 その先には田原本町多の集落の西に沿う道として約100m程の斜行路が残っています。道が終わるあたりに、太子道と書かれた案内標識が立っています。

多の村落の西に100mほどの斜向道がある。(北から撮影)

道が途切れるところに「筋違道」の標識がある。(西より写す)



 この多は古事記編纂者として有名な大安万呂(おおのやすまろ)の出身地でこの集落の西(太子道から約200m程西)にその先祖をまつる多神社がある。この神社の南隣には大安万呂をまつる小社神社もあります。
 多神社の西を飛鳥川が流れ、さらにそこから150m西に川に平行に以前に紹介した「矢継街道」が南北に走っている。その街道のそばに太子の宮選定の第1の矢が落ちたとの言い伝えがある「矢継神社」があります。

  多の祖先を祀る多神社。(南より撮影)

伝説の矢継神社。屋就神社とも書くので建築の神様とも思われている。この神社の東を矢継街道が走る。 (南より撮影)




 W.田原本町以南


 この多から先は広い水田となります。道の痕跡としては、延長線上に100m弱の斜行する里道(一見したところ草に覆われ、単なる畦道のように見える)が残っている。田圃中に斜行する里道が残っているのは極めてめずらしい。
 これまで辿ってきた筋違道は殆ど、集落内を通る道として保存されてきたもので、条里制施行後は耕作の都合が悪い田圃中の斜行道は消滅し、東西南北に走る里道に変えられたと考えられます。
 この道のことを多の古老に尋ねると、この里道は昔から太子道と伝えられているとのことです。里道の幅は4尺2寸と決められいて、誰の私有地でもなく、耕作してはならないとの掟が守られているようです。 さらにその先太子道はどう続いているのか尋ねると、正南北に走る畔のような里道を指差して、これが太子道と言われていると教えて頂いた。どうもその先は皆目、誰も分からないようです。

太子道痕跡は田圃中の里道へと続くが、それまでである。(北より撮影)

古老の話ではこの里道が太子道と言い伝えられているそうだが、正南北の畔に変わってしまう。 それ以降は古老も分からないとのこと。(北より撮影)



 もしも筋違道を素直に延長すると西新堂町の西端を通り、近鉄新口駅の西を経て八木町の東を通り、上飛騨町で飛鳥川を渡って、最終的には推古天皇が元居られた豊浦から西に2〜300m離れた山際にぶつかることになります。 この延長線上には斜向道の痕跡は全く見いだせません。また、到達地点が飛鳥の小治田宮があったと推定される場所から、かなり西にずれることになってしまいます。
 これらの理由から、新口付近で下つ道にぶつかり、太子はその下つ道を南に下り、小房町あたりから、飛鳥川沿いに小治田へ向かわれたのでは、という説が主流となっています。
 本当でしょうか。この説の根拠は一つもありません。第1に下つ道が出来たのは、太子の後の時代だろうと思われること。第2に下つ道以東に斜向道痕跡がまったく残っていないとは言えないこと。 (わずかに痕跡があります。)・・。第6章で謎解きをし、私の見つけた筋違道を紹介いたします。

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